エッセイ

最新

「月をさす指」

   映画「燃えよドラゴン」の冒頭で師祖ブルース・リーが少年に武術の極意を説く場面があります。そのシーンに次のようなセリフがありました。
  「それは、月をさす指のようなものです。この指自体にこだわってはいけません。そうしないと天の光(真実)を見失ってしまいます。」
   
   この言葉の意味を簡潔に説明した文章がありますので「無の道、無門関の話」藤本 治著、春秋社刊から抜粋して紹介したいと思います。
  
  「釈迦は、今まで随分、宇宙の真理がどんなものかを言句や文字で説明してきたが、いくら上手に説明しても、真理は説明できるものではない。真理を月とすると、言句や文字は、月を示す指でしかない。指を離れて、月を見ないでは、どんなに指で上手に月を示しても、月は見えない。この世の中のすべては、宇宙の真理が働いて、春には花が咲き、夏には風が吹き、秋には紅葉し、冬には雪が降る。わたしたちは、この世の中の春夏秋冬の移り変わりの中で、一喜一憂し、生死する。このような、移り変わりをどれほど見ていても、そのものを、そうさせているものはなかなか探し出せない。」(p.13)
  「宇宙の真理は、古今十方に偏在して、すべてのものをすべてのものたらしめている。働き通しているが、姿も形もない。重さもなければ、香もない。これが真理だと取り出して見せられるものではない。絶対の存在であるから、変化することもなく、常住にして、生死もない。仏教の教えは、小さい自我を捨てて、宇宙に偏在するこの真理と一体になれば、生死を脱却して自由に生きることができる。」(p.13)
  
   武道の世界に当てはめるとどういう意味合いになるのでしょう?師が弟子に武道の真髄を伝えようとします。たとえば、あるひとつの技を教えようと立ち方、構え、動作の名前と順番、動作の速さ、力の入れ具合、めくばり、呼吸法などをとても細かく丁寧に説明したとします。あるいは現代風に分厚い教本とビデオを見せて、その技を解説し実際の動作も見せながら教えてくれたとします。弟子はそれをすべて記憶しその技の動きも同じように覚えました。彼はその技を体得したと考えるでしょう。しかし彼は、その技がどんな局面に有効で、なぜ必要であったか、なぜそのような動きになったのか、という本質・根源まで理解したでしょうか?
  たぶんその本質を理解し、その技を実際に自由自在にあやつることが出来るようになるまである程度の年月が必要でしょう。
 
  「燃えよドラゴン」の中で、師祖ブルースは、まず少年に蹴りを出させます。その蹴りの習熟度は関係ありません。「なんだその蹴り方は、なってないぞ!」とわざと挑発し少年の気をたかぶらせ冷静さを失わせます。師は「もう一度、やってみなさい」と命じ何度か繰り返すうちに少年は、冷静さを取り戻し平常心で蹴りを出します。師は「それだ!」と叫びます。
  師は、蹴り方を教えたかったのではなく、実際の戦いにおいてもっとも基本である平常心を理解させようとしたのです。「何が起ころうとも、怒ったり、ねたんだり、おびえたりしてはダメだ。いつも心を乱さないよう冷静にいられるようにしなさい。」また相手の策略・ワナ・フェイントに騙されないように、相手の本当の戦術を見抜く大切さを説きたかったのではと思います。

                                    11/5, 03


「ジークンドー普及と組織化」

   「将来的に見てジークンドーを日本で普及させるつもりですか?」という質問を受けたこが何度かありました。一言で言うと「その気は半分あるけど、半分ない。」いい加減な答えだとは思いますが自分の正直な気持ちだから仕方がありません。
   一番好きなことをしてこれでなんとか最低限の生活が出来て自由時間も持てる、これで充分でしょう。何事もマイペースで少しづつ着実に歩いていけば良いと思います。師祖もただ「Walk On!」と言われただけで「Walk On Faster!」とは言われなかったはずです。速く歩きたいならそれでいいし、ゆっくり歩きたいならそれも良し、何度も立ち止まりながら歩くのも良いでしょう。自分にあった生き方をすればいいのです。
   
   ジークンドー団体を立ち上げ日本中にジークンドーを広めることは大変なことです。やろうと思えば可能なことかもしれません。過去に一代で組織を築いた有名な武道家・開祖はたくさんみえます。講道館柔道の嘉納治五郎、合気道の植芝盛平、極真空手の大山倍達、少林寺拳法の宗道臣。先師たちは、皆武道の技芸だけでなくカリスマ性、バイタリティ、経営戦略能力、野心など兼ね備えた天才です。
   自分には、以上の条件に当てはまる項目は、ひとつもありません。それでは、お話になりません。のんびり屋は、のんびりと生きていくしかないのです。人から何を言われようと身の程をわきまえ謙虚に生きられればそれで幸せです。数年前に周りからおだてられいい気になって背伸びをしようとして痛い目に遭いました。もうこりごりです、二度と同じような失敗はしたくありません。あの時点でジークンドーの組織を運営していけるような器ではないことを、はっきりと悟りしました。その器を持ち合わせた人材がすればいいことでしょう。そういう適材が十年後、百年後に救世主のごとく現れるかもしれません。
   
   組織をつくるには、優秀な人材と規格化されたマニュアルが必要です。フランチャイズのハンバーガー・ショップ、コーヒー・ショップ、コンビニなど詳細なマニュアル本が存在し少しの違いも許されません。当然「日本ジークンドー連盟」を組織するとなれば、ジークンドー・マニュアル教本が必要になります。生前師祖ブルースは、ジークンドーの技術書の出版をためらったと言われています。これがジークンドーの技だと限定的に理解され自由な発想が失われるのを危惧したのだと思われます。
   詳細な教本を作成することは、ジークンドー普及のためには必要だが、ジークンドーの本質・哲学・精神を伝えるには弊害を生む可能性が高いということです。理想と現実どちらを取るか?あるいはどちらに比重をおくか?の問題ですね。
   もうひとつ組織を大きくするには、多くの人材が必要です。組織の中に多くの人が集まれば、必ず権威・お金の問題が発生します。何度も書いたように人間の欲が頭をもたげ、いがみ合い、ののしり合いが始まりケンカとなります。だれもケンカや戦争は良くないと思っているし自分はしないと固く決心しても巻き込まれてしまうことがあります。大組織の一員として組織拡大の歯車になるのも嫌だし、大組織を作って頂点に立とうとも考えていません。
   なるべくそうした問題にかかわらない、問題をおこしそうな人とは、深く付き合わない。もしそうなりそうならば、自分の信念に従い早めに方向転換する。これは数年前の失態から身を持って学んだ教訓です。
  
   ミタチ・アカデミーは、日本中に支部道場が出来ることはまず無いだろうし、後世に名を残そうジークンドーの遺産を後世に継承していきたいなどという大それたことは考えていません。ただジークンドーを探求し続けることが私にとって生かされている意義だととらえています。生徒が増えようが、減ろうが、支部が出来ようが、出来まいがたいしたことではありません。
それよりもゆっくりとマイペースで好きなことを好きなだけやって勝手きままに生きていく。賛同されても非難されても、今の自分に出来ることをやるしかない。自己中心的で自分勝手な人間だということは充分自覚しているつもりです。そうこうしている間に技術的にも人間的にも優秀な人が育ってくればその人が後輩を引っ張って行けば良いだけの話しです。
   先ほど言った様に、何がなんでも死ぬまでに「日本ジークンドー連盟」を組織するぞ!と目標を掲げ自分にムチ打って突き進む生き方は、グズな私の性に合いません。
   所詮、人間なんて小さな存在です。「俺が!俺が!」と威張ってみたところでたいしたことは出来ません。自分の出来る範囲で自分にあった活動をした結果、ジークンドーが少しづつ自然に普及するのならそれに越したことはないと思っています。

                                     10/7, 03


「捨てること減ずること」

  
日本の学校教育は、知識を詰め込むだけの偏った教育方針が問題となり「ゆとりある教育」と銘打って公立の小中学校は、週休2日制が採用されるようになりました。私も少しでも多くの知識を得ることは良いことだと思っていたのですが、そうでは無さそうだということに気がつきました。
  人が知識をもつようになると、知識によってなんでも比較しようとします。そして多くの差別と対立を生み出すようになります。長と短、多と少、上と下、善と悪、真と偽、美と醜、賢と愚など相対的にすべてをとらえ判断するようになります。ここで一方が他方を差別する。知識を持つことにより知識を持たない人を差別する。
  知識が増え科学が進歩して新しい文化が育ち物があふれるようになりました。科学の進歩は人間の生活を便利に豊かにした反面、人間を苦しめる原因も多く生み出しました。車が欲しいと思い車を買う、しばらくするともっと速く走るカッコイイ車が欲しくなる。速い車にも飽き、今度はボートが欲しい、そして次はもっと大きなクルーザーが欲しくなる。「そういうものがある。」という知識が人間の欲望をかりたて「欲望の増大」につながっていくわけですね。ましてそれが手に入らないとなると欲求不満になり自分で自分を苦しめてしまいます。原因は自分の心の中に潜んでいるのに手に入らないのは他人が悪いから、会社が悪いから、政治が悪いからなどとほかのせいにしたりする人もいるようです。
  なまじ知識がついてくると悪知恵を使ってボロ儲けをしてやろう、人を利用してやろう、だましてやろうと良からぬことを考え始めるのが人の常です。そんな悪事に引っかかって苦しんでいる人もたくさんいます。知識は悪用される場合もあります。
  幸い私たちはかつて無いほどの豊かなものに囲まれ、最新の文明・文化を享受することが出来ます。新しい便利なものを造ることは上手くなりましたが、自分自身の心をコントロールすることは下手になってしまったようです。
  師祖ブルースは、「ジークンドーにおける真の道は、知識を徐々に加えていく蓄積の過程にあるのではなく、むしろ除去して減らしていくことにある。あらゆるものの本質や根幹や起源を探ることである。」といっていました。
  これは老子の第48章からの引用で「学問を積み重ねれば日に日に知識は増していき道を実践しようとすれば日に日に知識は減っていく。減らしに減らしたとき無為の境地に至る。」とあります。つまり学問とは知識を増やし加えていくことである。「求学」とは増と加であり、「求道」は、反対の減と少を意味していることになります。
  知識が増えれば増えるほど差別心も芽生え、欲望も増え無為無欲の道から遠ざかって行く。減の方法は、自分の内面にある知識と欲望を日に日に減らし無知無欲の境地にたどりつこうとすることです。
  前にも言いましたように、欲を断ち切ることは我々には不可能です。エスカレートさせないように自分の心を乱さないようにコントロールするしかないですね。結局は、「欲を少なくして足るを知る」「少欲知足」の精神が大切なのでしょう。

  武道の世界に足を踏み入れて30年近い歳月が流れようとしていますが、この期間できるだけ多くの技術を習おうと心がけてきました。日本とアメリカを行き来しながら「ひとつでも多くの技を覚えれば強くなれる。」と思い違いをしていました。それこそ前に述べた「多くの知識を得ることができえば万能だ。」という間違った認識をしていました。
  技を習得するということは、技の名前や技の動作の順番を知っていることとは違います。「実際に自分の体を使い技をかけられるかどうか?きごころの知れた練習相手に対して、多流派を修行している人に対して、試合に出場した対戦相手に対して技をかけられるか?」と自分自身に問いかけみると、自分が習得した技は、10%くらいしかないのではないか。残りの90%は、知っているだけで実践も応用もできないような気がします。たんなる知識としての技です。
  無意識に体が相手の動きに反応して自分が気がつかないうちに、その技がかかって相手を制している。そんな技が本当に習得された武道の技なんでしょうね。そう考えると知っているだけの90%の技術を捨てなくてはいけない訳です。正直いってそう簡単には捨てられません。実戦で使えないかもしれないとは言え、知るだけでも時間とお金を投資してきたんですからと俗っぽいことを言っているようでは、まだまだ半人前ですね。
  減らして少なくしていくには、まず所有しているものがなくては、減らしようがありません。一度目いっぱい持てるだけ持ってみてはどうかなと思います。両手を大きく広げ持てるだけ持ってみます。もうこれ以上は無理だ息も吸えないくらいになったら減らしていきます。この段階で師祖ブルースが言われたあらゆるものの本質や根源や起源をさぐりながら捨てていけば良いのではないでしょうか?
  今まで習って蓄積された技を一度ふるいにかけ選択する。「単純で実際に使える技か?」「動作はスムーズか?」「力の出し方や流し方に不自然さはないか?」「自分の体格・運動能力で使いこなせるか?」いろんな角度から分析し選び出していけば良いと思います。また「実戦で使えない技はどうして使えそうもないのか?改良・工夫すれば使用可能ではないのか?」想像力と創造力を充分発揮すれば不可能ではないかもしれません。
  もし敵がパンチを出してきたとします。それに対処するための100パターンの技を知っているとします。しかし実際に使うのはひとつだけです。「考えるな!感じるんだ!」まさしく師祖の名セリフ通り、「100のうち7番を使おうか、いややっぱり
32番にしよう。」などと考えている間にK.O.されてしまうでしょう。
  相手がどんな攻撃を仕掛けてこようと、こだまのように瞬時に体が自然に反応し 最も適切な技で対応しなくてはなりません。これは100の技、1000の技を覚えることとは、まったく別の次元の話です。老子は、学問を磨いていくこと知識を蓄積していくことは、作為的な行動であり博学多識を否定しています。余計な思惑を切り捨て 排除することによって心身を軽くし作為のない境地に到達する。そうすればいかなる 状況におかれても自由自在に対応出来るようになる。「無為の境地にいたれば何でも為すことができる。」という精神状態にいきつくと語っています。

                                      8/22,03



「Be Water, my friends!」 

   師祖ブルース・リーの言葉で水に関しての記述がたくさんあります。これらは老子からの引用で彼の経験をもとにグンフーをとうしての感想が述べられていたりして、とても興味深い内容です。今回は、水についてもう少し深く掘り下げてみたいと思います。まず水について師祖が書かれた文章を集めてみましょう。
         
   
従順さの偉大さは、水によってしめされるーこの世に水よりも従順で、柔らかいものは存在しない。しかし水は、もっとも固いものをもつらぬく。決まったかたちがなく、何の隙間がないところにも入っていく。あまりにも細やかなため手でつかむことはできない。殴っても痛みを感じず、刺しても傷ひとつつかない。
 
  覚えようとしたら、あなたは敗れるだろう。
  心を空にして型とかたちを捨てよ。水のように。
  さて水をコップに注ぐと、水はコップになる。
  ボトルに入れると、ボトルになる。
  ティーポットに入れると、ティーポットになる。
  そう水は流れることも、忍びこむことも、したたることもできるー砕け散ることですら!
  水になるのだ、わが友よ。
                 「ブルース・リー・ライブラリー2:グンフーへの道、p135」

   
粘りつく手は、水の性質に酷似しているー水はあまりにも細かく、それを手でつかみとることは不可能だ。打撃をくわえても痛みを感じない。何かで刺しても傷つかない。水と同様に、グンフー家は彼自身のかたちやテクニックをいっさいもたず、相手の動きにみずからの動きを合わせていく。たしかに水は世界でいちばん弱い物質である。しかしいざ攻撃に転じれば、もっとも固い物質をもつらぬくことができる。静かな池のように落ち着いているときもあれば、ナイアガラの滝のように荒れ狂うときもあるのだ。
                 「ブルース・リー・ライブラリー2:グンフーへの道、p76」

   グンフーの動きの道に、混乱は存在しない。一瞬たりとも静止することなく、永久に流れつずける川の動きのような、流れるがごとき連続性をもっておこなわれる。ひとつの動きがほぼ終わった瞬間に、止まることなく次の動きがスタートする。それゆえ、攻撃と防御は交互にお互いを生み出していることになる。
                 「ブルース・リー・ライブラリー2:グンフーへの道、p32」
 
   川と海は百の谷の支配者である。これは、その力が位置の低さに由来しているからだー川と海はそれらすべての王なのである。それと同様に人々を導こうとする完璧な統治者は、人々の後を行く。すなわち、人の上に立ちながら人のあとを行くのである。かくして彼は人々よりも上にいながら、だれも彼に侮辱されたとは感じない。そして彼は争おうとしないため、だれも彼とは争わない。
                 「ブルース・リー・ライブラリー2:グンフーへの道、p126」 

  もうひとつ老子について書かれた本の中からの訳を紹介したいと思います。
  *水のように
    何よりもすすめたいのは
    「水のようであれ」ということだ。
    水はあらゆるものに生命を与え
    あらゆるものを養いさだてる。
    そんな大変な力をもっているのに
    争わないのだ。
    人のいやがる低いところにも
    流れ込んでゆく。そして
    タオにつながる人もまた水に似て、  
    低いところを好む。
    心を求めるときは
    もっとも深いところを喜ぶ。
      (後略)
                   「老子と暮らす」加島祥造著 光文社刊 
  
   「人のいやがる低いところにも流れ込んでゆく。」このひとつの文章が心に引っかかった ままで、どうも気になっていました。どういう風に理解すればいいのだろう?
   老子の言葉は、時として普通の考え常識をひっくり返すようなことを説いています。誰でも人は上を好む。学業も仕事も一生懸命やり他よりも上のランクをめざす。当たり前の話ですね。しかしこの当たり前に問題がありそうです。老子からみれば我々のものさし(考えの基準)が異常に見えるのでしょう。
   なぜ人は上を好むのだろう。金銭的に裕福になり幸せになりたい。今まで何度も出てきたフレーズですね。「富や名誉や権力に執着する人間にたいして、そんなもの何の役にも立ちはしない捨ててしまえ!それが苦しみの根源だ!」と禅の教えのような言い回しも出てきます。
   水は自然に流れ、丸い器に入れば丸くなり、四角い器に入れば四角くなる。低い所へ低い所へと流れどんな小さな隙間にもしみて下に向かう。つまり上をめざすものと争わない。けっしていかなるものとも争わない。相手に利用されることもいとわない。利用されながら相手に恵みを与え流れ去っていく。人が嫌がる所へ流れて人に恵みを施す。溝を流れ下水道のなかの汚物をも運ぶ。飲み水は人間の体に入り細胞までしみわたり汚物として出される。命の源でもあり、汚物の掃除人にもなる。これが至上の善なのかもしれません。
   人は常に上を向いて頂上をめざして生きていきます。立ち止まることも転がり落ちることも許されないかのように一心腐乱に上をめざしています。上に登れば登るはど下が見えなくなってきます。我欲にかられ少しでも上に少しでも多くを手に入れようと懸命です。上に立ってたくさんのものを手に入れればそれが幸せなのでしょうか?
   人の嫌がる所にこそ人間の持つ本来の姿、喜怒哀楽があり真実が横たわっているはずです。底辺があり頂点が存在する。底辺が崩れ落ちれば、頂点もいっしょに崩れすべてがれきの山となる。底で苦労に耐え抜いている多くの人々の存在を忘れてしまった人がいかに多いことか。
    国民がいるから政治家がいる。  
    聴衆・観衆がいるから歌手や俳優がいる。
    参加選手・観客がいるからメダリストがいる。
  
   日本の政治家や官僚たちの多くは、自分たちの醜さに気がついていないのでしょうね。 自分の権力を誇示し維持することしか興味をもたず、それが政治だと勘ちがいをしているようです。少しは、誰のための政治か初心に戻って考えて欲しいと思います。一番弱いものの立場になってものごとを見る、感じることが大切です。偉いからお金があるからといって傲慢にならず、時には下方に目を向けてください。水のように下方に流れ他に恵みを与え、手柄を主張せず、より深い所へ身を任せていくそういう人が増えてくれたらと願っています。

                                   7/31,03


「賢い人愚かな人」アルボムッレ・スマナサーラ著  大法輪閣


   
最近手にした本の中に「まさしくその通りだな。」と感心させられる内容の文章に出会うことができました。今回はこの書籍からとても大切だと感じた部分を抜粋して紹介したいと思います。

*無知から生まれるわざわい(p.75)
   愚か者、無知な人という言葉をよくつかいますが、この言葉の中には、非難する気持ちも否定する気持ちも全くありません。「無知・愚か者」という言葉は、我々生命が本来持っている性格を正す仏教の専門用語です。修行というのは、この本来の性格を 正す実践方法です。それは智慧の道だともいえます。無知に基づいた生き方はあらゆる苦悩を招きます。しかし普通、人間はそれを見ようとしないのです。愚か者という言葉さえ、自分自身に関係ない言葉だと思いたいのです。
   人生は幸福だ、何とか努力すればもっと幸福になれるはずだと自分に言い聞かせ、 潜在的な心の本当の状態を全く見ようとしません。それは自分をごまかすことだと言えます。事実から逃げることにもなります。いくらごまかして生きていても、生きている者の苦しみはなくなりません。というわけで、さらに無知という概念について、今回も引き続き考えてみましょう。

   自分をアピールしたい、自己主張したい、自分のアイデンティティを認めて欲しいという気持ちは、人間にはよくあるようです。謙虚にひそかに生活していては、なかなか人に認めてもらえないという事実もあります。それで認めてもらうために、いろいろ 工夫します。そこに問題が起こります。
   なぜそんなに認めてもらいたいかというと、おそらく自分自身の生き方に何か不満があるからなのでしょう。心の中に何か空洞があるのではないでしょうか。自分自身の生き方に充実感を感じている人は、認めてもらうとかもらわないとかということは気にしません。不満を感じている人こそ自己主張のために、自分をアピールするために努力します。そのために、実際に自分がもっているものより大きく自分を見せなければなりません。社会の受け止め方も気にしなければならないのです。こうなったら、その人の生き方は不自由なものになってしまいます。本当の自分を押さえつけ、作り出したイメージに合わせて生活するようになります。それは自分で自分の牢獄を作ることです。
この苦しみの生き方は、社会ではよく見られます。釈尊は、出家しても空虚な心を持っている比丘たちに対して、このように述べられました
   「愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧の間では 上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう」(ダンマパダ73)、
   「在家の人々も出家した修行者たちも、私の行いだけをよく知って欲しい。何かことが起こったら、それについて私の指導に従って欲しいー愚か者はこのように思う。このようにして欲求と高慢とが高まる」(ダンマパダ74)
   ですから自己主張したがるのは、愚か者の性格であることを理解しておきましょう。本来持っていない力を出そうとしないで、あるいは見栄を完全にやめて、自分にできることだけ真剣に真面目にしておけば、楽だとおもいます。人が認めても認めなくても、自分の生き方に対して充実感を感じるはずです。
   自分の愚かさに気づかないで、偉くなろうと努力する人たちも大勢います。そういう人々は、いろいろなことにチャレンジしてみます。自分の名前にできるだけたくさんの肩書きをつけようとします。社会には、有名な大学を出たり賞をたくさん取ったり、さまざまな資格を取得したりしてはいるが、我がままで高慢で落ち着きがなくて何の役にも立たない人々が、多々みられます。精神的な世界にもチャレンジしようといろ いろな修行方法をかじってみたり、超能力まがいのものを持っていると言い張る者もいます。それで自分が悟った、解脱を得た、神と一体になったと思いきり宣伝して、 国の法律も破って犯罪まで引き起こします。
   愚か者は、修行しても、心清らかにしようと妙な行をやってみても、本人にも社会にも何もいいことはありません。要は愚かさに気がつかない限り、修行さえ無意味だということです。釈尊はおっしゃいます
   「愚かな者はたとえ毎月(苦行僧の風習に習って一月に一度だけ)茅草の端につけて(ごく少量の)食物をとるようなことをしても、(その功徳は)真理をわきまえた人々の十六分の一にも及ばない」(ダンマパダ70)
   人は、知識を得ようと、よく努力します。人間は、知識を生き永らえる道具として持っている生き物ですから、それは当然のことです。高慢ではなく、余計な欲もなくただ幸福に生きるために知識を求めることは、それほど問題になりません。でも人々は、高慢、限りない欲、見栄、名誉、権力、社会で自分の立場を確立すること、そういう目的のために知識を得ようとするのも事実です。これらの人々は、人間の本来の愚かさを無視しています。何でもできると勘違いしています。そのような目的でたとえ知識を得ても、それはその本人の人生そのものを破壊するだけでなく、他人にも大変な迷惑や損害を与えてしまいます。愚か者の知識さえも人が愚か者である限りそれは危険です。釈尊はおっしゃいます。
 「愚か者に知識があっても、それは彼に不利なことになってしまう。その知識は彼の幸運を滅ぼし彼の頭をうち砕く(人生が破滅する)」(ダンマパダ72)
   博学であっても悪人の行動は、自分にも他人にも不幸を招くことは明白です。一方、愚か者といえば、悪人だけではなく、すべての人々のことを意味しています。普通の人々は、法律を犯すことなく道徳や常識を破ることなく、生きていこうと努力しています。その結果として私たちは、平和な社会の物質的な豊かさの中にいられます。それは感謝すべき事実ですが、一歩進んで考えると、世界は平和ではありません。人類がすべて豊かでもありません。豊かな国々の中でも、生きるということは大変な競争です。 大自然も破壊していきます。医学を発達させても不治の病は依然とそのままです。そのうえ、幸福であるが故に現れる精神的な苦しみも身体的な病も次ぎから次へと生まれ、絶えることはありません。結果が悪ければその行動は正しくありません。その理屈から考えると、道徳的な普通の人間の生き方についても、問わなければならないー「現代人が必死で走っているこの道は、本当に正しいのか正しくないのか」と。長い年月を経て現代社会の今までの生き方について疑問を持つ人が増えています。これは行動の結果がすぐ現れないからです。愚か者たる我々の行動は、結局は良い結果を出しません。

*目先の楽しみは、後の落とし穴(p.229)
   人はよく過ちを犯します。過ちを犯すことが人間の特色だということもいえます。人間は必ず間違いを起こすのだという事実を理解すると、自分の過ちについて極度に 落ち込むことをしないで済むようになります。そしてまた、他人も自分と同じくらい いろいろな間違いをしますから、より立派な人間になりたいと思えば、それを理解して許すこともできるようになります。それは立派な人間の生き方だといえます。
   一方、世の中には、人間としてふさわくしくないタイプの人々もいます。彼らは、自分の過ちはごまかしたり、認めなかったり、許して欲しいと思ったりするくせに、 他人の過ちとなると断固として許さず、それを非難するのです。このような性格は、 人間関係を悪くします。社会の一員としてスムースな人間関係を作りたい人は、まず 自分がよく過ちを犯すということ、それを他人が許してくれたら心がいかに楽になるかということを理解すべきです。それから他人も同じ人間ですから、過ちを犯すことが 当然だと理解し、自分もそれを許す義務があると知るべきです。人の過ちをどこまで 許すべきかというのはケースバイケースと思われていますが、私たちは、「人が過ちを犯す限り許してあげなくてはならない。」と決心しなくてはいけません。

   それでは今回は、なぜ人が過ちを犯すのかを考えてみましょう。人が過ちを犯すということは、実に不可思議な現象です。間違いを犯したい、失敗したいと思う人はひとりもいません。誰もがしっかりと正しく行動したいと思っているのに、どこかでミスを犯してしまいます。防衛策はいくらでもありますが、それでも人類から過ちを完全になくすということは、あり得ないことです。

   これは人間の本質的な問題です。人というのは自分中心にものごとを考えて行動しますので、客観的にものごとを考えて理解することは不可能だと言ってもいいほどです。痛みを感じたことがない人に、他人の痛みはわかりません。人の悩みや苦しみを理解できるという人は、結局は、自分が味わった悩みや苦しみの経験を、他人に投影して他人の悩みや苦しみを理解できるということなのです。その場合でも、自己中心になってしまうことは避けられない事実です。でもこの方法は、私たちに、過ちの少ない生き方を教えてくれます。常に他人の中に自分を見出す、発見するーこれができると、人間関係におけるいろいろな理解できるはずです。また自分が何かをするとき、それを他人に投影してみる。そうすると、自分の行動は間違いが少なくて済むようになります。
  
   −中略−

   人は自己中心だから過ちを犯すと前に述べました。自己中心で、自分の都合によって物事を判断して行動します。しかしそれは確実に過ちを犯し道です。ときどき、欲、怒り、嫉妬、傲慢、ライバル意識、一時的な感情で我を忘れてしまうときもあります。そのときの行動も、すべて過ちです。必ず後で後悔することになります。
   
   −中略−

   我々にとって本当によいことは、大変無意味で面白くないことに見えてしまいます。我々を不幸と破滅に導く行為は、とても面白く感じます。麻薬、酒におぼれること、遊びにふけることなどは、わかりやすい例だと思います。この法則は、人類にとって 残念な現実です。目先の面白い結果だけ考えて行動することこそが、人間の過ちの根本的な原因なのです。            
                    
                                  6/15, 03


「自分自身を表現する」

   
 師祖ブルース・リーが生前インタビューや雑誌の取材の中でよく説いてみえた言葉の一つに「自己を表現してみなさい」というフレーズがあります。これはどういう意味なんだろうと考えていました。
   1998年にアメリカからリチャード・バステロ師父のジークンドー・セミナーを東京で開いたおりある参加者の人が、「私は、ブルース・リーのように成りたいんです。」ともらしたことがありました。それを聞いたバステロ師父は、笑みを浮かべながら「それは違うな、師祖ブルース・リーは自分自身になりなさいと言っていたんだよ。」と言われました。それ以上つっこんだ話にはなりませんでしたが、この言葉は今もとても印象に残っています。

   「自分自身になりなさい。」「自分自身を表現してみなさい。」とよく言われたということは、それが出来ない人がたくさんいるということです。つまり自分自身を隠し他人のふりをしているという意味なのでしょうか?そういう人もいるかもしれませんね。あこがれのタレントやスポーツ選手のファッションやヘヤースタイルの真似をしてそのタレントやスポーツ選手になった気分にひたり満足することはよくあります。それはあくまで好みですから他人がとやかく言う問題ではないだろうし流行の発信につながったりもするわけですから、解ってやっているのならばさほど悪いこととは思えません。
   あこがれの他人の格好や外見をマネることによって自分の理想像に近ずきたい。その思い入れがエスカレートし、本来の自分を見失い他人になったように錯覚してしまう。そのうち単なる錯覚が本当の自分だと思い込むようになって自己喪失に陥っていくこともあるかもしれません。
  
   もっと容易に自分を見失ってしまう原因は、やはり「お金」や「権威・名声」でしょう。人間だれしも「お金持ちになって裕福な暮らしがしたい。」「人より偉くなりたい。」「有名になって優越感にひたりたい。」と考えています。皆「欲」は持っているはずです。そう思っていてもそんなことに興味のない偏屈な人や俗世な感覚には囚われない悟りに近ずいた人も少数派ながらいるのも事実です。出来ることならこの少数派の一人になりたいと常々願っているのですが残念ながらそうはうまくいきません。
   多くの人は、「お金さえあれば、すべてが上手くいって幸せになれる。」と考えています。だからお金を手に入れるためなら何でもする、手段は選ばないという守銭奴のような人もいますね。「お金に目がくらむ。」とはお金以外は、見えていない。当然、自分も見えていないわけです。自分が見えなければ自分を表現することも不可能です。つまり本当の自分を隠し「少しでも自分をよく見せたい。偉く見せたい。お金持ちに見せたい。皆から尊敬されたい。」と願っているのです。これではまるで見栄のかたまりです。
   こんな欲求がもとになり、努力して自分を成長させる原動力になる場合もあるでしょう。お金を稼ぐこと出世することが悪いのではなく、そのことに執着しすぎて目的遂行のために振り回されて自分を見失ってしまう。それではダメだということです。本当の自分をわきまえ見栄を張らず等身大の自分を見つめ直して下さい。すべて思い通りに運べは良いですが、そうでないと自分で自分を苦しめることとなります。
   背伸びをしてカッコつけている人よりは劣等感にさいなまれている人のほうが、私は好感がもてます。完全な人間なんてこの世に存在しないのだし、自分の欠点や醜さを知っている人、愚かな自分の心の内を覗いてそれを正直にさらけ出すことが出来る人、往々にしてそういう人のほうが人間味があり包容力があるような気がします。
  
   格闘技の技術を習得していく過程において誰もが必ず壁に突当たることがあるはずです。「パンチは得意だが、どうもキックが上手く出来ない。」「キックは得意だが投げ技が上手く出来ない。」「パンチとキックのスピードとパワーはあるが、フットワークとタイミングが悪くて実戦では当たらない。」どんな人にも長所と欠点はあるだろうし、努力と練習で欠点をおぎなっていくのですが、どんなに努力して人の倍の時間を費やして練習しても出来ないこともあると思います。
  それは体格の差、性格の差、柔軟性の差、反射神経の差いろんな原因があると推測されます。人の運動能力は、千差万別ですね。自分の運動能力を見極め得意な動作に磨きをかけ、時には不得意な動作を諦め捨てることも大切な選択だと思います。この時点でありのままの自分自身を冷静に謙虚に観察しなくてはなりません。出来ないのに出来るふりをしたり、出来るのに出来ないふりをしてもいけないのです。だから「自分自身になる。」「自分自身を表現する。」ことが重要になってきます。自分を飾らないでありのままをさらけ出し自分に最適な解決法を見つけ出す。そして自分の個性を引き出しながら成長して行かねばなりません。
   このダメな自分をそのまま、ありのまま映し出してくれる鏡のような存在がジークンドーであり、それによって自己啓発をうながし自己改革、自己成長に向かっていく道のりがジークンドーの真髄ではないかと私は理解しています。完成へと向かう生き方を武道・格闘技をとうして体現したブルース・リー師祖は、こうした自分の哲学をジークンドーと呼んでいたのでしょう。もちろん完全・完成はありえないし悟りと呼ばれる最終到達点もないことを彼は熟知していたようです。
                    
                             5/25,03

 
   

「流派と宗派」

   様々な土地で様々な民族により多種多様な格闘技・武道が発祥しました。そこからまた派生・統合を繰り返し現代に受け継がれた流派もあれば消滅した流派もあったことでしょう。まさしく信仰を母体にする宗教と似かよった様相がうかがえます。
   現在の武道の流派は、肉体的な向上を促す格技の基本・修練段階がありその規範にのっとり練習がおこなわれ昇級・昇段制度が成り立っています。と同時に精神的な成長を目的とした教義がどの流派にも存在しています。道徳的なもの、哲学的なもの、宗教的なもの、またこれらをミックスしたものなど教えも様々です。その流派の開祖、師祖の理念・信仰を基本とし修行者・伝道者による新しい教えの加味・改変などの長い歴史をへて現在にいたっているようです。
 
   世界の宗教は、3大宗教と呼ばれているキリスト教、イスラム教、仏教があります。宗教とは、何のためにあるのでしょうか?辞書を引いてみると
「心の空洞を医(イヤ)すものとして、必要な時、常に頼れる絶対者を求める根源的・精神的な営み。また、その必要性を求めることの意義を説く教え。」とあります。
   人が生きていくうえで心の空洞・むなしさ・苦悩を癒してくれるはずの宗教が、唯一自分たちの信ずる絶対者へ傾倒するあまり他の宗派の人々を排斥したり殺戮したり人を不幸のどん底へ落としめる愚行が今なお続いています。どんな大儀名分・正義を掲げようとも人の命を奪うことは正当化されるはずがありません。それは真の宗教からかけ離れたものです。
   敬虔なキリスト教徒で有名な大国の指導者が、戦争を仕掛け多くの人々の命を奪い「私の決断は正しかった。」と胸を張っています。キリスト教徒のふりをしているだけなのか、信仰が浅すぎるのかどうみても敬虔という言葉からほど遠いように思います。
   「この教えが絶対に正しい。他はすべて間違い。」「私の流派は、世界最強で他はすべて弱い。」と狭量な考えに染まってしまったら大事なものを見失ってしまうでしょう。自分の考えが自分の実践していることだけが正しいと信じ、それ以外のものを侮辱したり差別することは間違っています。人は、ひとつの教えにほれ込むと純粋な人ほどそれに陶酔しそれ以外の教えを否定する傾向がありますが、それではあまりに度量が狭すぎるのではないですか?もっと視野を広く大らかに懐(ふところ)を深くどっしりと構えたらどうでしょう。
 
   私は、キリスト教の説く「神」、仏教の説く「仏」、イスラム教の説く「アラー」も老子のいう「タオ(道)」も多少理解の仕方や表現の違いはあるにせよ、すべて同じ存在ではないのかと思っています。広大無辺な世界の法則をつかさどるものはひとつでそれによってすべての命は生かされているのです。生きとし生けるものすべて生かされ命の重みは同じなはずです。「人の命は動物より重く、動物の命は植物より重く、アメリカ人の命はイラク人の命より重い。」と考えている人が多くいるようですね。私はすべて平等だと考えています。そうはいっても残念ながらこの世界には平等などありません。私も蚊やゴキブリは殺してしまいます。「虫の命も人の命も同じだ。」と言ったのに矛盾しています。
   罪を犯さずに生きていけないのが人間です。法律を犯す罪と宗教的な戒律を犯す罪と二つの罪があります。私は、今まで両方の罪を犯して生きてきたし、死ぬまで罪を犯さなければ生きていけないでしょう。交通ルールを破ることもキセルも人に迷惑をかけることも検挙されなくとも、それは罪を犯したことと同じですね。肉や魚や卵や野菜を
食べることも他の命を奪っているわけですから宗教的な罪を犯すことでしょう。(キリスト教ではこの点に関しては少々理解の相異があるようですが)
   つまり人が生きていくと言うことは、他の命をいただいて他に迷惑をかけて自分が生かされていくことに他なりません。このことを自覚しているのと自覚していないのでは大きな違いがあると思います。「自分ひとりの力で生きているのではなく、生かされているのだ。」と意識するだけで別の世界が見えてくるような気がします。最近「こんなグータラな自分がこの世に生かされている何とありがたいことだろう。どんな嫌なことが自分に降りかかろうとどんな苦難がたちはだかろうと自分の身で引き受けて行くしかないのだな。」と考えられるようになりました。自分には到底理解できない大きな力が作用していてそれにすべてを投げ出し身を委ねるしかないのです。自分に都合の良いことも悪いことも…
 
   「流派だ」の「宗派だ」のとひとつのものにこだわらずにお互いを認め合い、理解し合い協調し合えたらどんなに素晴らしい世界が広がるでしょう。「愚かなる自己の認識」と「執着からの解放」がジークンドーの教義の中に、含まれているように思われます。

                                    5/10, 03
 

©All rights reserved by Mitachi Academy