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「ジークンドーの名前を抹消してしまえ!」
   

   1976年頃に日本で初めて出版された「Tao of Jeet Kune Do」ブルース・リー著の日本語版を読んだ時にとても印象的な文章がありました。今も最も記憶に残っています。この書の一番最後に記されています。

   
   
「もし人々が、截拳道はこれやあれやと違っていると言うなら、その時には、截拳道の名前をはぎとらせる。何故なら、それは、それが現在あるところのもの、まさに名前であるのだから。どうかそれを理解して欲しい。」(灰田匡江訳)

   「人々が、截拳道はこれやあれとは違う、といい出すようになったら、截拳道の名前を抹消してしまえ。なぜならそれはその程度のもの、単なる名前に過ぎないのだから。どうか、そのせいで騒ぎ立てるような真似はしないで欲しい。」
(奥田祐士訳)
   
   同じ文章の訳を2つ引用させて頂きました。師祖は、本質的に何を訴えたかったのでしょうか?截拳道(ジークンドー)と自分の武道に名前をつけた時、将来どういうことが起きるか見通していたのでしょう。実際に彼の死後30年以上たった今でも「本当のジークンドーは、これでありあれではない。」と不毛の議論を戦わせている人がたくさんいます。
   これは、仕方のないことですね。みんな比較すること、区別すること、差別すること、そしてそれにこだわることが好きだからです。この点については何度も取り上げてきました。我々は何にでも、レッテルやラベルを貼り名前を貼り付け商品にしてしまいます。人間にも職業や役職や収入や資格によって良い悪いのレッテルを貼り付けています。
   このレッテルについて実にうまくわかり易く仏教の教えを通して解説してある書がありました。私の下手な文章よりは数段わかり易いので紹介させて頂きます。

さて、仏教を理解するキーワードに、
 <諸法実相(しょほうじっそう)>
  があります。これは「法華経」に出てくる言葉です。
それから、もうひとつ、
 <諸法空相(しょほうくうそう)>
  があります。こちらのほうは、「般若心経」に出てきます。

   これはなかなか難解な言葉です。「諸法」とは、「あらゆるもの」ということですから「諸法実相」とは、「あらゆるものが真実である」ということになります。そして、「諸法空相」とは「あらゆるものは、空である」ということです。
   しかし、これでは何を言っているのか、さっぱりわかりませんね。もっとやさしく言い換えてみますと、わたしは、「諸法空相」とは、―人間の物差しでもってものをはかるな―ということであり、諸法実相」は、―ほとけさまの物差しでもってものをはかれ―と説明しています。
 
   わたしたちは「人間の物差し」でもって、すべてのものごとをはかります。
   たとえば、<あの人は善人だ、悪人だ>といったふうに。あるいは、<わたしは金持ちだ、貧乏だ>とか<頭がいい、悪い>と。そうして、その貼ったレッテ ルにしがみつきます。それで、<あいつは頭が悪い>と軽蔑したり、<あの人は金持ちだから>と尊敬したりします。そんな、物差しで人をはかるな、そんな物差しなどアテにならないのだ、というのが
諸法空相」です。
   「空」というのは、ものには物差しがついていない、ということです。ここに一千万円があるとしてください。わたしがそれを見れば<わあー、すごい大 金!>と思います。しかし、大金持ちが見れば<なんだ、はした金>となるでしょう。一千万円という金に物差しがついているわけではありません。物差しはそれを見る人間の側にあります。
        ・・・中略・・・

   仏教は、「すべてのものは空なのだ。それを、わたしたちが勝手な物差しではかって、大きい・小さい、美・醜、長・短、・・・とさまざまに差別しレッテルを貼っている」と教えています。
    
 だから、空というのは実践的に言えば、
 差別するな!
 レッテルを貼るな。
 レッテルを貼ったのであれば、そのレッテルを剥がせ。
 こだわるな。
 自分が勝手に差別し、レッテルを貼った、その差別、レッテルにこだわるな。
 という意味です。

                 「ひろさちやの親鸞を読む」ひろさちや著 佼成出版社

 
   ジークンドーは、ただの名前・呼び名にすぎないにもかかわらず、それをレッテルだと勘違いをしてしまった人がいると言うことです。ジークンドーの中で優劣をつけ差別したり、ジークンドーと他の武道とのあいだに優劣をつけ差別したりしています。
   必ずそうなるだろうと予見した師祖は、いましめの言葉を残したのでしょう。しかし、これは人間が持つ本性であり、これを捨て去ることはむつかしいことかもしれません。
   自分の中にもジークンドーというレッテルに対して執着する心・こだわる心がまったくないか?と問いただしてみると確信をもって「まったくありません!」と断言することが出来ません。自分もどこかにこだわりの心があるのでしょう。
   かつて何度かジークンドーの看板を下ろそうと真剣に思ったことがあります。こんな思いをしてまでジークンドーを続けているのだろう?いっそ「ミタチ・グンフー」でも「御舘流拳法」でもいいから適当な名前をつけ再出発したほうが自由になれると考えました。
 
   師祖ブルース・リーは「ジークンドーとは、自由なる自己による真理の探究である。」と説いていたにもかかわらずジークンドーという固定した枠にはめられたような息苦しさを感じた時期がありました。その時、頭の中をよぎった言葉が「截拳道への道」の最後に編纂された文章でした。

   「人々がジークンドーとは、これやあれやと言い始めたならジークンドーの名を剥ぎ取りなさい。ジークンドーとは、たんなる名前でありその程度のものです。騒ぎ立てないでください。」

   
前までこう思っていました。「私にとって本当にジークンドーを理解できたときとは、ジークンドーという名前へのこだわりが消えジークンドーの看板を降ろしその名前をきっぱりと捨てたときではないか。」
   しかし、そんなに力むほどのことでもありませんでした。本当はどちらでもよかったのかもしれません。捨てたくなれば捨てればいいし、捨てたくなければ捨てなくてもいい、その程度のものだったのです。
   ひろさちやさんの得意なセリフが浮かんできます。「迷ったならサイコロを振って決めればいいのです。右へ行っても左へ行っても仏様の道は開けます。自分の浅はかな自力・知恵など捨てなさい。」 まさしくそのとおりだと感得しました。取っても捨てても、どちらにしても真実への道は開かれていることには違いはありません。今まで続けてきたことこれから続けていくことにまったく変わりはない訳ですから・・・

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 「弟子一人ももたず」
   
 
  
私は、半人前のくせに人に武道の技術を指導するという仕事をしています。指導する武道の技術内容と同じくらいに気をつけていることがあります。人と接するうえでもっとも基本的なことです。
   それはクラス中に、指導者としてのおごりがないか?指導中に「教えてやるぞ。」といった高飛車で高圧的なしゃべり方や態度をとっていないか?「先生」と 呼ばれいい気になっていないか?すべての人に平等に接することができているだろうか?と頭では解っていて気をつけているつもりですが、後悔の連続です。 「あの時の話し方は、謙虚さに欠けていたな、もっと親切に誠実に対処出来たのではないか?」と後になって思い返しては反省しています。
   たまに電話でジークンドーについて質問を受けたりもしますが、なるべくわかり易く説明をしているつもりでもわかってもらえなかったり、どうしても話の内 容がかみ合わなかったり、一方的に話を続けられる方などさまざまです。冷静に穏やかに話しているつもりでもこちらの気にさわるようなことを言われ時には 「カチン!」とくることもあります。最近そんな時には、こういうふうに答えるよう心がけています。
   「電話でいくらお話してもジークンドーを、理解するのは難しいですね。ジークンドーに限らずどの武道も同じで、頭で理解するものではないと思うし何十年も体を動かし続けて少しづつ気づいてわかってくるものです。汗の量と理解度は正比例しています。その汗をかかずに2,3分の電話で理解しようとするのは不可能です。雰囲気だけでもよければ、練習を見学するのもいいですし体験レッスンを受けるのもいいでしょう。」と。
   
   先生と生徒の間にある師弟関係には、指導する側から指導を受ける側への上下関係があります。当然そこには、生徒から先生への尊敬、信頼、賞賛、憧れという気持ちがわきおこってくるでしょう。
   他のひとから尊敬され、ちやほやされると気持ちが高揚し自分は偉くなったと思い、有頂天になり威張りたがるのは人の常です。こういう先生の口癖は決まっています。「俺は、誰それに教えてやった。」「誰それがいまあるのは俺のおかげだ。」
   教えるということには、傲慢さやおごりがついて回ります。教えることになんの疑問や不安を抱くことのない教育者が増えているように思います。これだけのものを、あれだけの人に教えてやったのだというこだわりから自由になれず、支配的なゆがんだ師弟関係を望む先生がいかに多いか?
   「あれは俺の弟子だ。」「生徒は先生に従順で何でも言うことを聞くのが当たり前だ。」これではまるで奴隷ですね。人を自分の所有物のようにとらえています。
   
   師祖ブルース・リーによって創始されたジークンドーを練習・修行している人は、アメリカを中心に世界中に広まりつつあります。ジークンドーの組織もたくさんありそれぞれ支部道場を増設し普及に力を注いでいます。当然一人でも多くの優秀な指導者が必要になってきますから、優秀な人材の奪い合いになることもあります。企業との間で行われるヘッド・ハンティングと同じですね。優秀な人材を高給で引き抜き会社の業績を上げていく。これは企業による人間の私物化だと思います。ヘッド・ハンティングを受ける人もいるし断る人もいるでしょう。その人個人の判断ですから他人がとやかくいう問題ではありません。ただそこまでする必要があるのか疑問に思います。
   生徒の数や優秀な指導員の数は、支部道場の数につながってきますから、つまり組織の大きさに直結しています。やはりこれもビジネスなのです。大きな組織になれば、お金の流れる量も多くなり、と同時に醜いもめごとも増えるというわけです。前にも述べたと思いますが、ほどほどに頑張りすぎない生き方が自分には合っていますので私は、一生「スローライフ」を続けていくつもりです。
   
   有難いことに、ミタチ・アカデミーには、さほど数は多くはありませんが、日々汗をながしジークンドーの練習に打ち込んでいる方々がみえます。一般的に練習生、道場生、生徒、弟子と呼ばれています。
   あくまで感覚的なことですが、私は練習にみえる方を自分の弟子とは捉えていません。先述したようにどうしても弟子を私物化したい傲慢な気持ちが起こりやすいからです。
   ジークンドーの開祖は、ブルース・リーですから練習生は皆、師祖ブルース・リーのお弟子さんだと考えています。師祖の前では、私も練習生も同じ位置にいるただのジークンドー修行者です。大柄な言い方をすれば、師祖の前では、バステロ師もイノサント師も私も練習生も同じジークンドー修行者なわけです。もちろん知識や経験においては、我々より両師のほうが上です。実際に生前の師祖から直接手ほどきを受けたわけですから、ただジークンドーを志す者同志、技術・ 経験・熟練度の差はあれ両師と我々も同じ仲間であり同朋だと思います。
   そう考えれば、練習生が他の組織や道場に行ったとしても何のわだかまりもおきません。「弟子を取った、取られた!裏切られた!」などと大騒ぎしなくてもいいのです。「彼は、私の弟子ではなく師祖の弟子なのだから、自分の意思で自分なりのジークンドーを探し求めて行ったのだからそれでいいのです。師祖も詠春拳の門から離れることによりジークンドー創始へとたどりついたのです。」こう考えたほうが道理にかなっているように思えます。
   今後もジークンドーの門を叩き訪れる新しい師祖ブルース・リーのお弟子さんとの出会いを楽しみにしています。たとえ短期間であったとしてもその縁を大切にし、ジークンドーの精神を少しでも伝えられたらと願っています。
                                          
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「縁を疎外する論争」
*自分の見解へのこだわり
  
   縁というむすうの糸によってあらゆる人々と結ばれている私たちでありながら、対立や論争によってその縁を損ないがちです。ここではそんな論争について考えてみましょう。
   お釈迦さまは、あらゆる存在に永遠不変なものはなく、すべては変化し、消滅するということを悟られました。この教えを「諸行無常」といいます。このような見方は、現実をどこまでもあるがままにとらえようとするところから生まれます。永遠不変な存在はないという教えは、固定的なものの見方を排するものです。自分に都合のいいように解釈したり、理解したりするのではなく、あるがままの現実を見ることによってあるがままの現実を映すのです。
   反対に自分の立場や集団の立場を絶対視し、そこからものをみようとすると、どうしても自分に都合のいいようにしか見えてきません。このように、独断的に見たり考えたりすることを、仏教では、「見(けん)」と呼んでいます。悪見や先入見、偏見といったものがこれにあたります。仏教ではこのような悪見が六十二種あるとみなし、これを「六十二見」といいます。
   お釈迦さまがこの世にいらっしゃったころ、世間には伝統的な哲学とともに自由思想家たちが輩出し、一元論、多元論、懐疑論、唯物論などの多くの思想や立場が主張され、お互いに相争っていました。
   このような異なった学説や学派がお互いに論争をすると、どうなるでしょうか。自己の学説を絶対的に正しいと主張するようになり、さらに他の学説を批判し、排斥したり排除したりするようになるものです。
   一方、仏教はあるがままの現実認識から始まるので、一つの考えを絶対化することはありませんでした。これらの問題について、原始仏教の経典である『スッタニパータ』はつぎのようにいっています。
 
  
 *世間で人が勝れているとみなすものを「最上のもの」であると考えて、諸々の見解に
  とどこおり、それよりも他のものすべて「劣っている」と説く。それ故に 彼らは諸々の
  論争を超えることがない。  (796節)

 *或る人々が「真理である」というところのその見解をば、他の人々が「虚偽である、虚妄
  である」という。このように彼らは異なった執見(しつけん)をいだいて論争をする。何故に
  諸々の道の人は同一のことを語らないのであろうか?  (883節)

 *真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は争うことがない。
  彼らはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の道の人は同一の
  事を語らないのである。  (884節)
  
   この三つの文を読めば、なにをいわんとしているかは明らかでしょう。一方の見解を優れているもの、他方を劣っているものとみなすと、どうしても論争にな ります。人間は負けることがいやですから、論争となるとどうしても論議が論議を呼び、自説に固執するようになります。
   論争は有意義な場合もありますが、たいていは不毛に終わることが多いものです。鎌倉時代に曹洞宗を開いた道元禅師も諍論(じょうろん)することを戒めています。
 
   今の学人、我が智慧才学、人に勝れたりと存ずるとも、人と諍論(じょうろん)を好むことなかれ。また悪口を以て人を呵責(かしゃく)し、怒目(どもく)を以て人を見ることなかれ。 (『正法眼蔵髄聞記』)

   学問や才能が人より優れていると思っても、人と論争したり、悪口をいって人をののしったり怒りの目を持って人を見てはならないといっています。「学道勤 労(がくどうごんろう)の志あらば時光(じこう)を惜(おしみ)て学道すべし。何の暇(いと)まありてか人と諍論すべき」といわれるように、真実の学道修 行の志があれば、自分の学道に専念すべきで、他人とくだらない論争などしている暇などないはずです。不毛な論争は自分にとっても他人にとっても無益です。道元はこの立場を貫くため、他宗と論争することはありませんでした。

 *真理は一つ

   『スッタニパータ』の引用文で注意すべきところは、ある人が真理であり、真実であると主張する見解に対して、他の人がそれは虚偽であり、虚妄であるとお 互いに論争するが、真理は一つではなく数多くあるものだろうかという問題提起があり、これにお釈迦さま、つまりブッダが「真理」は一つであって第二のものは存在しない」と答えている点です。
   ブッダにとって真理とは、あるがままの現実が無常であるということです。あるがままの現実はただ一つしかないので、当然真理は一つであり、第二の真理は存在しません。ただし、あるがままの現実をただ単に理解し、解釈しようとすれば、自分の立場や見解によってどうにでも解釈できます。同じ事象や事件も、イデオロギーを異にすればまったく正反対の解釈がなされるのは、政治の領域で日常見せつけられているところです。
   仏教では、現実を解釈するのではありません。あるがままの現実体験をそのまま見るのです。映すといってもいいでしょう。存在が無常であるということを見 るという行為を通して悟るのです。存在が無常であるであることを見た人は、人と争うことがありません。なぜならば、自分も相手もすべて無常の劫火(ごう か)に焼き尽くされている現実を直視しているからです。道元のことばでいえば、「何の暇(いと)まありてか人と諍論すべき」ということになります。

 *おごりを生む権威主義

 続いて『スッタニパータ』は、次のように説きます。
 
  *見解や伝承の学問や戒律や誓いや思索や、これらに依存して、他の説を蔑視し、
   自己の学説の断定に立って喜びながら、「反対者は愚人である、真理に達して
   いない人である」という。  (887節)

   ここで説かれていることも重要です。人間は、伝承された学問や思想などに頼りたがるものです。つまり、権威に頼りたがるのです。なにか権威に裏打ちされていないと不安になり、十分に発言もできないなどということはよくあります。
   権威にはさまざまなものがあります。国家権力、巨大組織、カネ、栄誉、学問などさまざまです。そのような権威に依って他人の学説や思想を蔑視し、自分の思想や教義の正しいことを主張し、反対するものは愚者、ばか者と規定することは、もっとも真理に反する行為といわなければなりません。
   そこでは自分の属する集団の絶対化が行われ、寛容の精神など微塵(みじん)もなくなります。激しい対立や闘争ということになれば、自分と考えを異にする人を抹殺するに至るのは
歴史の多くの事実が示すとおりです。
   また、戒律に依存する修行者は、自分が戒律を守っていることを誇り、破戒者を侮蔑(ぶべつ)します。これは、己のみ清しとする一種のおごりになります。
   仏教は、このようないっさいの権威主義を否定します。「真理は一つ」であることを高く標榜するがゆえに、真理に達した人はすべて同一のことを語ると信じているのです。同一のこととは、このあるがままの現実が無常であるということです。この真理を無視し、否定するものは、
  *「誤った忘見を以てみたされ、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なもので
   あると思いなし、みずから心のうちでは自分を第一人者だと自認」(889節) 
   するに至り、真理を畏(おそ)れぬ悪魔、外道になりさがるのです。
   仏教は、このあるがままの現実を無常と見ることから出発します。それは、私たちのような凡人には見ることができない真理の領域です。それを見たのがお釈迦さまでした。お釈迦さまはその心理を平易なことばを使って弟子たちに説きました。そして、お釈迦さまを人類の教師と仰ぐ仏教徒は、仏教の根本真実を時代と風土に適合させながら、繰り返し繰り返し説き来たり、説き去ったのです。
   この無常とは、ことばを換えれば、あらゆるものはたまたま縁によって仮に成り立ち、依存しているということです。縁が変われば存在のしかたも変わるので す。それが無常です。その固定していない関係を理解せず、自分の固定観念から他人を攻撃するのが論争です。無益な論争に終始するより、今与えられている縁を知り、生かされていることに感謝することのほうがずっと真理に近づく道だといえるでしょう。

  以上、「平常心是道(へいじょうしんこれどう)」 鎌田茂雄著から引用させて頂きました。

   
   テレビのニュースを見たり新聞をひろげてみますと、世界中で闘争・論争・論議から悪口ののしり・愚痴・いやみにいたるまで人と人とのぶつかり合い・いがみ合いが行われています。残念ながらこれが発端となり、ただの誹謗中傷から殺人へとエスカレートしてしまう最悪のケースも多々あるようです。
  
   武道の世界も同じで一つの流派を黙々と修行を続ける人もいれば、その流派に限界を感じ他流派に移る人、自分で一流派を立てる人、最初から独学で修行をする人さまざまです。武道の世界における真理を追求するためにいろいろな道のりがあり、どの道を選ぶかは自分自身です。ここに優劣は存在しないはずですが、 おうおうにして「我々は、彼らより強いから我々の流派が優れている。」「我々の技術は洗練され完成されているから彼らよりも上だ。」ということばを耳にすることがあります。これがまさしく不毛の論争です。
   「強い弱い」「勝ち負け」の尺度で計ってしまうと優劣がはっきりしてしまいます。武道には、確かにこうした尺度もありますが、この尺度がすべてではあり ません。しかし、人は皆強くなりたい、勝ちたいという願望がありそれにとらわれあくせくしてしまいます。たとえば試合に出れば当然勝ちたいと思うでしょう。負けたいと思って試合にのぞむ人はいません。
    試合や大会に出て知らない人と体をぶつけ合い、そこから学ぶことも沢山あると思いますが試合をめざして前日まで自分を鍛えて肉体的にも技術的にも精神的 にも自分自身を向上させていくその過程のほうが大切だと思います。自分をぎりぎりのところまで不安と恐怖の中へ追い込みそれを克服できるまで鍛錬をする。 その試合に出場しようと決心した時から試合の当日までの期間に努力して自分の能力を少しでも向上させることができればそれで充分目的は達せられたと思います。後は、勝っても負けてもどちらでもいいじゃないですか。「勝負は時の運」ということばもあるくらいです。勝敗は2次的なものです。
  
   武道だけではなくスポーツもそうですが、無理をすると体を壊します。最初からどうせ体が動くのは若いときだけだからそのときだけやれればいいという人もいるかもしれません。とにかく好きだから試合など出なくてもいい、無理をせず一生続けていきたいという人もいることでしょう。私はどちらかというと後者か もしれません。
   ジークンドーという武道に出会う縁をいただきジークンドーをとおしてあるがままの自分を映し出してきたつもりです。今後いつまで生きられるかわかりませ んが、10年後、20年後の自分がどう成長してどう老化しているか、そのあるがままの姿をどう受け入れているかとても興味があります。
   ジークンドー武道としての術理・法則・真理は、愚鈍な自分にはまだまだつかみきれていませんが、自分の体力は確実に衰え死に向かっているという事実は悟っています。すべてのものは無常であるという仏教的な真理も自覚しつつあります。

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「正義とは?」

   以前に、正義を主張する裏には危険性を伴うというようなことを書きました。このことについて今回はもう少し深く考えてみたいと思います。
正義という言葉は、実に清潔感があり実直な感じがしますが、個人的には大嫌いな言葉の一つです。正義と呼べるものなどこの世には存在しないと思っています。「正義を主張する。」とは、道理にかなっていて正しいこと言うことです。道理にかなう道理とは、何なのか?我々人間が定義する道理は、いつも曖昧です。自分達に都合のいい様に解釈し「我々が正義だ!邪悪なものはすべて抹殺しろ!」と言って押し付けます。それでいて決して自分たちの非を認めようとしま せん。

   
ひとたび国家間の戦争となれば我々は、「正義の為に敵国を滅ぼさねばならない。」と両国は主張しあうでしょう。どんな主義・教義・法律であろうとも人が人を殺すことに正義は、成り立たないと思います。当然、死刑制度にも反対です。人がつくった法に照らし合わせ、人が人を裁き人の命の生死をも決定する。 人間にはそれほどの権限はないと思っています。法律を犯さない人は沢山いるでしょうが、悪を犯していない人は、この世には存在しないからです。前にも書いたように、法律上の罪と宗教上の罪は違います。嘘をつくことは罪なのか、法に触れない嘘もあるでしょうし触れる嘘もあるでしょう。多くの宗教では嘘は罪だと考えています。嘘をついたことの無い人間がこの世にいますか?私の身の回りには、そういう人はいませんが、もしかしたらどこかに、そういう奇特な人が存在しているかもしれません。それならば息を吸って吐いただけで他人に迷惑をかけることになるのだと仏教では教えます。酸素を取り入れ二酸化炭素を排出し地球上の空気を汚したというわけです。これも罪を犯したうちに入るのです。 たとえ裁判官だろうと検事だろうと総理大臣だろうと呼吸をしなくては、生きていけません。
   つまりすべての人間が深い浅いの違いはあるにせよ罪人だということです。その罪人が「正義」と叫んでみても何の説得力も持ち合わせていない訳です。
  
   「あなたは、正しいジークンドーを教えているのですか?」と聞かれたら、私はたぶんこう答えるでしょう。「正しいという意味がわかりません。私は、自分なりに自分にあった方法で師祖のジークンドーを理解して実践してきました。正しいか間違っているか比べてみたことがありません。正真正銘の正しいジークンドーを見たことがありませんから、たぶんこれはインチキ・ジークンドーかもしれません。自分に合った技術を研究し修練してきたつもりですが、これがあなたに100%合うとは思えません。自分には合っているように思えても、あなたには合わないということは、あなたから見れば偽物です。」
   師祖は、「私にとっての真実とあなたにとっての真実は違います。あなたはあなたの真実を探して下さい。」と言われていました。生徒が先生を信じること も大切ですが時には疑ってみることもあってもおかしくありません。クラスの中で言ったことがあります。「ここで教えることを鵜呑みにしないで下さい。間違ったことを教えることだってあります。自分は、正しいととらえている技術が他の人には役に立たない場合もあるでしょう。そういう時は、疑って下さい。無理やり理解したフリをするよりはましです。」「おかしいぞ。」と疑問に思い、そこから新しい発見・アイデアが生まれ自分なりの技術を発見・習得出来ることだってあるはずです。
  
   見方を変えれば私は、インチキ・ジークンドーを教えるペテン師かもしれません。そう思われてもあまり腹が立ちません。その方が変なプレッシャーもなく逆に気が楽ですね。ジークンドーを自分勝手にとらえ自分が使いやすいように改変してしまった部分もあります。それを邪道というか進化というか、それを判断するのは自分自身ではありません。それを習う人たちです。
   中には自信を持って「私の説く道を信じれば間違いはありません。必ずすべての人に最高のジークンドーを授けます。」という先生もいるかもしれません が、自分には所詮、我流ジークンドーを見せるのが精一杯です。しかし我流が真剣に求め続ければある時、本流に近づくことがあるかもしれません。先程述べたようにそれは、自分で判断するのではありません。回りに集まって来た人達が決めることです。
  
   2流・3流インストラクターと言われても構いません。死ぬまで1流の求道者(ぐどうしゃ)でありたいと常々願っています。今後も正しかろうとなかろうと自分流ジークンドーを捜し求めて行くでしょう。「正義」という言葉のあいまいさを心にとめ、それにとらわれることなくそこからいつも距離をおいてゆっく りと歩んでいくつもりです。

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「戦わずして勝つ」
   
孫子の兵法の中に「戦わずして勝つ」という有名な話があります。すぐにピンとくる人もいるかもしれませんね。映画「燃えよドラゴン」の船上でのシーンです。ハンの要塞へトーナメント参加者が一同に船に乗り込み島へ向かう途中でハプニングがおこります。
   これは、塚原ト伝の無手勝流からの引用です。剣豪・塚原ト伝が諸国漫遊中にある渡し船の中で武芸者の一人から口論を吹っかけられ、相手が「お前は何流なのだ?」と聞かれ「無手勝流だ。刀を抜くのはまだまだ未熟な証拠だ。」と言い返した。相手はこれを聞いて烈火のごとく怒りだし「ならばこの場で決着をつけようではないか。」と挑戦してきた。ト伝は、「よろしい、そこまで言われるのでは仕方がない。しかしここは船中ゆえ他人の迷惑にもなろうし邪魔が入っても困る。向こうに島がある。あそこで心ゆくまで戦おうではないか。」と言って船を島に向かわせた。島に近づいて来ると武芸者は、待ちきれずに真っ先に船から降り浜辺へと走って行き、「いざ勝負!」と太刀を抜き身をひるがえすと船はすでに沖に向かって漕ぎ出されていた。「無手勝流とはこれなんだ。そこでゆっくり頭を冷やされるが良い。」と塚原ト伝は叫んだという。
   武力に対して武力をもってして戦うのはまだまだ未熟者だということです。相手も傷つけず自分も傷つかないそれでいて戦いを回避している。百人を殺した百戦百勝より、百戦して誰も傷つかずに百戦無敗のほうが困難でありまた価値があると思います。「勝たなくとも良い、負けなければ。」もっと突き詰めれば勝ちも、負けも無い。そんな些細なことにこだわっている醜い心があるだけだ。これが禅の根底にいつも流れている精神です。
  
   師祖ブルース・リーは、ジークンドーを通して世界中の人種・国籍・言語・文化・宗教の違いを乗り越えられると考えていました。中国系アメリカ人として差別もされ苦い経験をして、これではいけない何とかしなくては?自分の一番得意とする武道の分野を通して少しでも平和・調和に貢献出来ないものかと思索していたようです。
   ジークンドーとは相手をやっつける為ではなく、相手と調和することの重要性を説いています。単なる技術的な調和で勝利することだけではなく、もっと根本的な人と人との関係において和を得ることは出来ないだろうか?
 
 なぜこの人と戦おうとしているのか?
 勝つことによりどういう結果が残るのか?
 自分が負けたらどうなるのだろうか?
 戦いしか他に方法がないのだろうか?

   やはりよくよく考えてみると塚原ト伝の無手勝流が一番良さそうだなと思えてきます。 
現在やられたら、やり返す論理がまかり通っています。ああいった自分勝手なアメリカのやり方には怒りを感じます。今も現在の自分をはぐくんでくれたのは、このアメリカだと思っています。8年間のアメリカ滞在がなければこうしてこの文章を書いていることはなかったはずです。それほど想い入れがあるからこそ余計に言いたいのです。
   「アメリカよ、謙虚になれ!」「ブッシュよ!目を覚ませ!」と。
  
   テロはいけないことだと誰も知っています。どうしてアメリカがテロの標的になったのか?
なぜそこまで憎まれたのか?何もしていないであそこまでされる訳がありません。それだけの憎しみを受けるようなことをアメリカが長年して来たのではないか?そこが一番知りたいと感じました。
   正義!正義!と連呼する人々には注意が必要です。正義のためなら何をしてもまかり通るという危険な思想がそこにはあるからです。
   
   ジークンドーは武道ですから目に見える表面的な部分では、戦い方の技術とその心がまえを修練しています。肉体的には護身術と言えると思いますが、私は護心術でもあると考えています。自分の(平常)心を護る術です。心はいつも乱れやすいものですね。乱れた心に振り回され体も傷つけることだってあります。こ れほど移り気で暴発しやすいものは無いのではないかと感じたことがあるでしょう。そんな不安定な心を穏やかに安定させることが心を護ることでもあるととらえています。
   護身術であり護心術であるべきで、自分の身と心を護るということは他人の身と心を護ることでもあるはずです。「己を利し他をも利す」そうすれば無意味な戦いは避けられるでしょう。そうすればおのずからお互いが理解し生かしあえるのではと思います。

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