エッセイ





   その時に感じたこと考えついたことを記述する随筆程度のものです。時には他の書籍からの文章抜粋、またジークンドーにまったく関係のない内容もあります。自戒の念もふまえて書かれたメッセージです。

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「自分をみつめる」

   毎日の生活に追われながらも、誰も一度は自分自身について真剣に考え悩んだことがあるのではないかと思います。

     「将来、自分はどうなるのだろうか?」
     「何をするために生まれてきたのか?」
     「こんなことをしていて良いのだろうか?」
     「今よりも張り合いのある生活をしたい。」
   
   将来・未来に不安を抱かずに日々を過ごしている人は、この世に存在するのでしょうか?誰もが一度は考えた経験がある問いだと思います。そして現在・今よりも未来は、必ず良くなると期待し向上心を持ち努力をし生きているのでしょう。
   以前は、よく「自分はなぜ生きているのか?」「自分にとっての生きがいとは?」とたびたび自問したものですが、ここ最近その問いにたいしての興味がなくなってきたのか、あまり考えなくなりました。
   「そんなに真面目腐って難しく考えても・・・考えたところで何も変らない、なるようにしかならないんだから。」「この世に生まれてきたついでに死ぬまで生きる。」「人生なんてその程度のものだ。」と思うようになりました。自分をあきらめてしまったような、何となく投げやりな印象を受けると思いますが、現在のいつわざる正直な心境です。
   思いおこせば20代の頃は、人並みに野心も欲も夢もあったような気がします。自分自身ににムチを当て「もっと頑張れ!走り続けろ!負けるな!」と叱咤しながら生きていた時期もありましたが、いつの頃から自分の能力の無さに気づき始め、「所詮、自分の人生はこの程度だ。」と開き直るようになりました。未知の物に挑むこともおっくうに感じ、何かあるとなるべく丸くことを収めようと、どうしても安易な道を選択してしまいがちです。熱く燃えるような、何かしなくてはとジッとしていられない気持ちは、残念ながら消えうせていくのを感じています。加齢とともに体力にも気力も衰えていることは間違いありませんが、こんなにも気持ちが冷め積極性に欠けることになるとは、若かりし頃からは想像も出来ませんでした。
   「何かしたい!」「どうにかしたい!」「手に入れたい!」という欲(ほっ)する気持ちが減少した分だけ心の葛藤(苦しみ)が少なくなったということでしょう。また生きているうちに多くの失敗・挫折・落胆を経験し精神的に鍛えられ、些細な困難にぶつかってもあまり動揺しなくなったのかもしれません。ただ神経がずぶとくなってきたのかもしれません。
   お金がすべて自分の欲望を満たしてくれると盲信して、金儲けだけを目標に毎日を生きている人も沢山います。お金はなくとも平穏で平凡な生き方を望むの人も沢山います。お金はどれだけ稼いでも満足は出来ません。もっともっと欲しくなるはずです。いつまでもフロンティア精神に溢れ冒険をし続ける人もいれば、保守的に変らない安定を望む人もいるでしょう。最近は、平凡な毎日を望むようになり、非日常的なことはなるべく避けようとする心理が働いてしまいます。波風のたたない静かで穏やかな日々を過ごせたらなと思っています。
   若い頃は、「何でも自分で出来るのではないか?やって出来ないことは無いのではないか?」と自分の能力を信じきることが出来ました。自力をたのむことが当たり前のようでした。しかし、年を取るごとに何度も失敗や挫折を繰り返し、この世は自分の計画どおりにはいかない思うように行かないことだらけだと気づき始めます。「自分は努力したから成功するのが当然だ。」皆考えるでしょう。成功する人は、一握りの限られた人間だけです。
   物質文明花盛りの現代社会では、富と名声を手に入れることが幸せであり成功者と認知される条件のようです。お金がすべてではないと分かっていても金儲けに血眼になっている我々です。いやお金ですべて買えると思っている人も沢山いるのかもしれません。反面、「拝金主義には、もううんざりだ。」とお金には関係ない自分なりの幸せ探しを始める人も増えているようです。お金はなさすぎると生きていけないし、ありすぎてもトラブルの原因になるようです。ほどほどが良いようですね。そのほどほど加減は、人それぞれ違うのでしょうが・・・何度も同じ事を書いていますが、やはり執着し過ぎないことですか?
   
   6年前、金銭的にすべてを失ってからとても穏やかな充実した毎日が送れています。とても不思議なのですが、自由になる時間が増え自分の好きなように仕事ができ、家族を養うだけの最低限の収入が確保できるようになりました。世間からみれば大変な状況だったのかもしれませんが、意外とさっぱりした気持ちで不安はあまり感じませんでした。
   丸裸になっても支えて頂いた生徒さん、友人、家族がいたから今の自分があるのだと、この感謝の気持ちを心に深く刻みつけていつまでも忘れないようにしなくてはと思っています。
   「生きるとは苦しむこと。」どんな嫌なことが起きても、どんな火の粉が降りかかろうと「仕方が無いどうしようも無い。」ただただ受け入れるしかないでしょう。ふりはらえる火の粉もあれば、そうできない火の粉もあります。燃えて灰になってしまったなら諦めるしかありません。諦めるとは、自らを明らかにするという意味があるそうです。仏教の教えでは、「愚かな自分をあきらかにする、さらけだす、心の闇を照らし真実にめざめる。」
と説明しています。
   「あなたの生きがいはなんですか?」と聞かれたら、「お金や権力を手に入れることでもなければ、ボランティアにいそしみ社会福祉に貢献したい。」でもありません。たぶん今の私は、「死をむかえる時が来るまで、ただ生きること。」と返答をするでしょう。「そんなことくらいなら誰でもできる、当たり前のことではないか!」と思われるでしょう?
自分のような欲まみれの愚人には、「ただただ生きること」が難しいのです。
   生きがいや希望を持ってそれに向かって生きていく人もいれば、それなしで生きていく人もいるでしょう。きっちりと人生設計をしてそのプランに沿って努力を続けて生きていく人、その逆で行き当たりばったりの気まぐれな生き方をする人、どう考えても私は、後者に属します。今まで何度も計画表を作りましたが、どれ一つ計画通り成し得たことがありませんでした。いくら予定を立ててもその予定通りには行きませんでした。漠然とこうしようか、ああしようかと思うことはあってもさほど真剣には考えなくなり、それに向かって努力しようとも思わなくなりました。
   
   自分には自分なりの生き方があり、他人にも他人の生き方があるわけで較べる必要も優劣をつける必要もありません。自分の生き方に特別優越感を抱くことも無ければ、劣等感を持つ必要も無いと思います。たんたんと生かされている時間の中を流されていけばいいのではないでしょうか?いずれ大海にいきつくはずです。途中で手足をバタつかせ、どんなに抵抗しようとも状況は、さほど変りません。
   人から褒められようと馬鹿にされようと、気にしないで我が道をゆけば良いのです。気負う必要もなく、卑下することもなく・・・そのままの自分で。まさに宮沢賢治の詩「雨ニモ負ケズ・・・」の心境です。
   
   所詮、どんなに偉そうにしていても人間一人の存在なんてちっぽけなものです。人間だけでなく動物も植物も山も川も谷も石ころも無限の世界にあるちっぽけな存在です。たとえちっぽけでも唯一貴重な存在です。無くてはならないとても大切な存在です。何の役にも立たないものにも時間だけは、悠々と流れていきます。たとえ人類が地球から消滅したとしても、永遠に時は刻まれていくことでしょう。時間の流れだけは止まることはない、まさに真実です。
   自分の生きたあかしをこの世に残したいとも、功績や財産を残したいとも思いません。死とともにこの世から去るわけですから生きたという痕跡は残す必要はないし、残したところでそれが何になると言うのでしょう?歴史に名を残すような大偉業を成し遂げ、歴史の教科書に自分の名前を永久に残し尊敬されたいのでしょうか?
   私は、死を迎えるまで極力生きた証を消し去りたい、自分に関するものすべてのものを焼却してしまいたいと思っています。去年、すべての日記を処分してしまいました。自分でも何がそうさせたのかよく分かりません。こんなろくでもない自分に嫌気がさし自己嫌悪になってやったわけではなさそうです。自分自身を「ダメ人間だ。ノロマだ。バカだ。」と罵倒してみても、心のかた隅には「いや俺も捨てたもんじゃない。まだまだやれる。」という「うぬぼれ」が存在しているのです。回りにどんなに卑下して見せても誰かにほめてもらいたい、認めてもらいたいという「いやらしさ」は私の心の中からなくなりません。
   こんないやらしい人間がこうして生かされている、他の多くの命を犠牲にさせてまで生かされている、この事実に感謝せずにはいられません。この世に生を受けさせて頂けた、それだけで充分です。何も残す必要は無いでしょう。財産も地位も肩書きも、権力も何の価値もありません。これらは永久不変なものではありませんし、手に入れたからといって幸せを保証するものでもありません。
   
「上流・下流」「勝ち組・負け組」「ワーキング・プアなどという言葉が問題となり格差社会が広がったと言われています。たとえ下流の負け組に属していたとしても生きがいをもって幸せに生きられる方法はあるような気がします。もちろん人は皆平等であるべきだし格差を無くせるならばそれは理想だと思います。しかし勝ち組にいる政治家や高級官僚らは、金まみれになり、負け組にいる貧しい国民のことなどまともには考えていません。彼らはいつまでも上流にしがみついていたいだけで、そんな連中に格差社会を是正するなど不可能です。
   たんなる社会のひとつのモノサシが「お前は、落ちこぼれだ。」と決めつけただけの話でしょ?幸せは自分の心が決めるわけですから気にする必要はまったくないし、生きがいならどこにいてどんな貧乏な暮らしをしていてもみつかると思います。気の持ちようひとつで幸福にも不幸にもなるということです。
   
   最後に、相田みつをさんの言葉を拝借させていただきます。
   
       「受身
        柔道の基本は受身
        受身とはころぶ練習
        負ける練習 人の前で
        恥をさらす練習」
  
       「実行できないけれど
        わたしの一生の
        座右の銘
        自分をかっこ
        よくみせようと
        いう気持ちを
        捨てること」
 
       「名もない草も実を
        つけるいのちいっぱい
        の花を咲かせて」

       「花はただ
        咲くただひ
        たすらに」

       「土の中の水道管
        高いビルの下の下水
        大事なものは表に
        出ない」

       「しあわせはいつも
        自分のこころが
        きめる」

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「しなう、しなやか」

   
五木寛之氏の「不安の力」を読んでいて、ふと「死亡的遊戯」(アメリカ版)を思い出させる文章に出会いました。竹の上に雪が積もり、雪の重さでしなり今にも折れそうな風景が映し出され、「バサッ」一瞬のうちに雪が落ち、竹は何事もなかったようにまっすぐ伸びるシーンが「死亡的遊戯」の中に収められています。これは、竹の持つ特性「しなやかさ」を表現しています。
   五木寛之氏の「不安の力」からその「しなやかさ」の重要性を説いた箇所を抜粋してみたいと思います。
  
   人間は誰でも、ああ、もう生きているのはいやだ、というふうに無気力感を覚えることもあります。これを「こころのなえた状態」とも言います。「萎える」は、古い言葉では「しなえる」ともいう。ぐにゃと曲がることをいいます。花や野菜が時間が経ってぐにゃっとなってしまうのも「萎える」という。人間も一日のうちで、一生のうちで、「こころの萎えた状態」をくり返し持つのです。ああ、いやだな、と思いながら目を覚ます人もいれば、悶々と夜をすごす人もいる。そういうなかで、萎えた状態はよくない、と考えるのがいままでの常識だったのかもしれません。「しゃんとしろ」「がんばれ」というかけ声のなかで、人間は「こころの萎えた状態」を悪と考えてきました。ぼくは、それも違うと思うのです。
   北陸の金沢へ行くと、初秋から秋にかけての時期に「雪吊り」という作業が行われます。雪吊りとは、高い樹木などに支柱を立てて、上から傘の骨のようにロープや縄を降ろして枝に巻きつけて支えるものです。毎年、兼六園やいろいろな場所で、ピラミッドを思わせるような美しい三角形のデザインが生まれる。これは、金沢の初冬の風物詩てアマチュアカメラマンなどもたくさん撮影に集まります。
   なぜ、この雪吊りをするのでしょうか。日本海側に降る雪は、北海道などの雪と違って強い湿気を帯びています。べとべととして重い雪なので、松の枝や葉にすぐにくっつく。その上にまた雪が降りつむ。すると、ものすごい重さになる。しかも、その雪はなかなか滑り落ちない。
   そのため、強く堅い木ほど、つもった雪の重みに耐えかねて、夜中に枝が折れてしまうのです。むかし、深夜に兼六園の近くを歩いていたときなど、パキーン、パキーンと枝が折れる鋭い音があちこちで響いていたものでした。雪吊りをすることでそれを防ぐのです。
   その場合に、雪吊りが必要なのは強い木であり、硬い枝です。逆に、竹や柳のように柔らかくしなうものには雪吊りはしない。そういう木々は、枝の上に雪がつもってある重さになると、ぐにゃっとなってその雪を自分で滑り落とします。そして、すぐに元に戻る。それをくり返しながら冬を耐え、やがて春を迎える。
   要するに、しなうものや曲がるものは折れない、堅いものや強いものこそ折れる、と言うことでしょう。「しなう」という言葉は「しなやか」という言葉にも似ています。ですから、「こころの萎えた状態」というのは、言い換えれば「こころがしなっている状態」です。しなやかなこころの持ち主であるからこそ、こころが萎えるのだとも言えるでしょう。
   いま、ぼくらのこころにも、この日本海側の雪のように重いものが日常的に降りつもっています。毎日毎日ぼくらはその重圧と戦っているのです。ただ突っ張ってばかりいると、どこかでぱきんと音を立てて折れてしまう。逆に、こころが萎えた状態でしなって、その重圧をスルリと滑り落としてまた元に戻るということをくり返す。そうしていけば、折れずに生きていけるのではないか。そんなふううに思うところがあります。
   つまり、こころの萎えた状態で、「ああ、人生ってどうしてコウなんだろう。生きているのが面倒くさい」と感じるのは、しなっている状態だと受けとめればいい。しなうことによって、重く降りつもる風雪を振り落とせばいい。
   いまの時代は、その降り積もってくる風雪の重みが、耐えがたいほどになっている時代です。それだけ人びとがストレスを感じている<大変な時代>なのです。それをすべて背おって抱え込んだままでがんばっていると、いつか必ず折れてしまうのではないか。
   心療内科へ通わざるをえない人たち、あるいは生きていることでため息をつかざるをえない人たち。そういう人たちは、まさに<こころ萎えた状態>を感じている。それは、実はこころがしなっているということであり、また、しなやかな生命力が残っていることだと考えてほしいと思います。曲がること、萎えること、そして、しなやかにしなうことも大きな力なのだ、と。
   

   まさに老子のいう「柔良く剛を制す」です。老子の中にはこの「柔らかさ」「しなやかさ」の重要性が何度となく説かれています。人は生きているうちは暖かく柔らかだが、死ぬと冷たく堅くなる。柔は生を意味し、堅は死を意味しています。また水の存在の大切さにも言及していました。
   心も体もできるだけ、「しなやか」に「柔らかく」いつまでも保ちたいものです。当たり前のことですが、体は年齢とともに堅くなり30歳を過ぎると関節痛・皮膚のたるみ・抜け毛や白髪が増えたりと老化現象が出てきます。五感も衰え、反応も若い頃に較べれば鈍くなってきます。まさに常なるものは無し「無常」であり、何ひとつ自分の思い通りにはなりません。
   もちろん自分の体にもかなり以前から所々に自覚症状が表れています。無駄な抵抗だとは知りつつも毎日サプリメントを取ったり、時々ウェイト・トレーニングをしたりヨガのレッスンを受けたりとあがいている愚かな自分がここにいます。
  
   体ももちろん大切ですが、気持ちや心を柔らかく保つほうが難しいような気がします。いつも私たちの心の中には常識、固定観念、先入観、風習、慣例、儀例などかたくななものがどこかに巣くっているはずです。柔らかな心とは自由な心だと思います。何事にも捉われない、執着しない、型にはまらない柔らかな心とは、そうしたいっさいから解き放たれた自由な心ではないでしょうか?
   頑張るのが当たり前と思って、努力しても期待したほどの良い結果が出ないことがよくあります。「じゃ頑張ってね!」は、別れ際によく使う言葉ですね。我々の口癖になってしまったようです。最近この反対の「そんなに頑張らなくていいよ。」という言葉もちらほら耳にするようになりました。根がぐうたらな自分にはとても気が楽になる言葉で、私は大好きです。
   人生思うようにいかなくて落ち込んだとき、精神的に追いつめられたとき、
大きなストレスで押しつぶされそうになっているときには、「何もそれだけにこだわらなくてもいいじゃないか?他にもやり方はいくらでもあるし違った生き方だって無数にあるよ。所詮、人生なんか思いどおりには行かないもんさ。そんなに根を詰めて考え込まなくてもいい、気軽に行け!頑張らなくていいんだよ。」といったアドバイスのほうがどれだけ気がきいているか、萎えた心の状態から抜け出す
助力になるのではと思います。

   
自分の力を過信した「なせばなる、なさねばならぬ・・・」は、程ほどにしたほうがいいかもしれません。努力するなとは言いませんが、ならなくてもいいじゃないか?やれるだけやったのならそれで充分!結果は、サイコロをふるのと同じです。
  
   これからの時代を生き抜くには、よく言われている「いいかげん」「良い加減」がやはり必要なのでしょう。今までいいかげんで行き当たりばったりで、わがままな生き方をしてきたにもかかわらず、飢え死にしないで今も生きているのが不思議でなりません。何度も挫折し、後悔して、劣等感のかたまりのような自分が生きてこられた、いや生かされてきた。
   「今度こそもうダメだ、起き上がれない。」全身の力が抜けてへたった状態に何度も陥ったことがありました。「萎えた」「へたった」頭を上げることすら、眼を開けることすら出来ない最悪な精神状態へ落ち込んだとき、私はそのまま嘆き悲しみながら時が経つのを待つしかすべがありませんでした。今から思えば、五木さんが言うとおり落ち込んでいる間に、じっと悲しみを堪えている間に少しづつ心の底に苦悩をはねのける為の力が充電されていたのかも知れません。「何事も時の流れが解決してくれる。」とよく言いますが、そのとおりだなと思います。
   「何が何でも自分の力で乗り切ってみせる!」という、かたくなな気持ちで自分の前に立ちはだかる壁に挑んでいたら、今生きていなかったのではないかと思います。それほどまでも真剣に真面目に思いつめていたら、たぶん自殺していたでしょう。「逃げたって、諦めたっていいじゃないですか?どうせ生かされている身ですし、いずれ死をむかえる身ですからその時が来るまで生かせてもらえば、どんな不安があってもそのうち良い事だってあるでしょう。」と
最近は開き直った
ような心境で日々暮らしています。

   
よくアメリカの友人が別れ際にいっていた言葉「Take it easy!」(気楽にね!)の一言が今ふと頭の中をよぎりました。
                                          
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 「クリシュナ・ムルティとブルース・リー」
   
   
ジークンドーの哲学・精神・概念の中核をなす教えは、「仏教の禅」「老子の道徳経」そして「クリシュナ・ムルティの精神哲学」だろうと私は考えています。クリシュナ・ムルティの書籍は、かなりの種類日本語に翻訳され出版されています。興味のある方は一読されることをお勧めします。
   「伝統的なしきたり・儀式・法律などに身をおくことは自分自身を盲目的にしてしまう危険性をはらんでいる。ありのままの現実、本当の姿をなんの偏見もなくみつめるには、それにまつわるすべてから自由にならなくてはならない。」と彼は何度も説き続けていました。
   初めてこのクリシュナ・ムルティという人の名を知ったのも書籍「ジークンドーへの道」をとおしてでした。20代前半で手にした「自我の終焉」、正直言って人生経験も哲学的な要素も無縁な無知な自分には断片的にしか理解出来ませんでした。その後30代、40代でこの書を読み返すにつれ少しずつうなずけるようになっていきました。クリシュナ・ムルティの主張は
一貫しています。「現実を何も通さず偏見を持たずありのままを見つめなさい。他の何かに頼らず自分を見つめ葛藤の原因を突き詰め、その恐怖から解放されるのです。」と言い続けていました。
   彼の残した多くの言葉を追っていくと、師祖が残したジークンドーの精神とことごとく合致してきます。いくつかの文章を紹介していきましょう。
     
      真理は誰か他の人から与えられるものではなく、あなたが見つけ
      出さなくてはなりません。そのためには、精神が直接に知覚しうる
      状態でなければなりません。抵抗や、防御、守勢という姿勢がある
      ときには、直接に知覚することが出来ないのです。理解は、あるが
      ままのものを知ることから生まれます。あるがままのもの、すなわち
      実体とか現実と言われるものを、解釈したり、非難したり、正当化
      したりせずに正確に知ること、それこそ「知恵」の第一歩なのです。

                             −クリシュナ・ムルティ

   すべてわからないことは、先生が教えてくれると思いがちです。師祖は、「私は教えることは出来ません。あくまでガイドラインを示しそこへ導いてやる為の手助けが出来るだけです。あとは成功しようが失敗しようが貴方しだいです。」と言っていました。
   言葉で文字で頭で理解し知識として残そうとする人がとても多いような気がします。武道の技を習得する場合は言葉より文章よりまずその動きを見ることが大切だと思います。そのままの動きをそのまま見ることがまず知覚であり、そして自分の体を動かしてみる、それが習得へとつながっていくのでしょう。
   「いやそれは少し違うような、私が前に習った流派ではこうしたし、このほうが良いように思えます。」 この時点でこの人は、過去の経験、偏見、プライドを持ち出してしまい現実を正確に知ることを拒絶してしまったのです。


       あるがままのものを認識し追及していくためには、きわめて鋭敏な
       精神と柔軟な心を必要とします。というのは、あるがままのものは
       絶え間なく活動し、絶えず変化し続けているからなのです。そして
       精神が、信念や知識というようなものに束縛されていたりすれば、
       その精神は追及をやめ、あるがままのものの素早い動きを追わなく
       なってしまいます。あるがままのものは、決して静的なものではなく
       厳密に観察してみると分かるように、絶えず活動しているのです。
       ですから精神が静止していたり、信念や先入観に囚われていたり、
       自己を対象と同一化してしまっていると、そのような動きが出て
       こないのです。また干からびた精神や心は、あるがままのものを
       素早く敏感に追っていくことが出来ません。
                             −クリシュナ・ムルティ

   まさに武道の動きも静止しているかのように見えてもお互いの心は常に変化しています。戦いの局面は常に動き変化します。まばたきをする一瞬の間にも状況が変わってしまうことも多々あります。動的な変化についていくには、知識として詰め込んだ技術に頼りすぎると対処できません。一瞬の動きを正確に察知するにはやはり考えていたのでは遅いのです、感覚的な反射神経をとぎすませておかなければなりません。
   反復練習した固定的な動きが現実の絶え間なく変化する局面についていけるか、それがとても大切だと思います。型だけを習得しても実際には使えません。では型の動きを実際に使えるようにするにはどうするか? まず一つの動作の意味を知らねばなりませんね。そしてその動作の使える状況・環境を知る必要があります。その状況でスピード・パワー・タイミングといった諸条件が合わなければ充分な効果を生むことは出来ないでしょう。
   そして最終段階として、その技を出すための局面が表れた一瞬をのがさずに身体が反応するかです。スパーリングをしていると何度もそういったチャンスに遭遇します。相手のスキが見えるのですが、それは一瞬ですからすぐ消えてしまいます。その時に身体がその変化に自然に反応するか、しないかということです。この逆もしかりで相手の攻撃をもらったということは、自分のスキを相手に突かれてしまったということですね。「チャンスを逃さず、ピンチに対処する」口でいうのは簡単ですが、一生掛けて追求していくのもこの境地なのです。

       恐らくたいていの人が、何らかの形で幸福や平和を求めています。
       しかも混乱や戦争や、競争や闘争などのために苦しめられている
       世界では、少しでも平和がえられるような避難所を人間は望む
       ものです。そして私たちは絶えず求め続け、次から次へと新しい
       リーダーや、宗教や、精神的指導者などを探し回っているのです。
     
       ところで私たちが求めているものは、幸福なのでしょうか、それとも
       幸福を引き出せそうな満足なのでしょうか。幸福と満足は同じもの
       ではありません。恐らく満足を見出すことはできるでしょう、でも
       幸福を発見するようなことは決してできないのです。
     
       まず私たちが求めているものは何か、それは幸福なのかそれとも
       満足なのかをはっきり知らなくてはならないのです。私たちは皆
       たいてい満足を求めているような気がします。そうではありませんか。
       私たちは何かによって満足させられることを望み、望むものを探し
       求めたその後で、満たされた充実感を味わいたい、と願っている
       のではないでしょうか。
       たとえば、私たちが心の平安を求めている場合、それはいとも簡単に
       見つけ出すことが出来るでしょう。何らかの主義や思想に盲目的に
       自分の身を捧げ、その中に避難することは出来るかもしれません。
       しかし、明らかにそれでは問題の解決にはなりません。一つの思想に
       閉じこもって孤立するだけでは、闘争から解放されたことにはならない
       からです。従ってどうしても、外面的にも内面的にも、私たちがめいめい
       何を望んでいるのかをまず見出さなくてはならないことになります。

       私たちはおびただしい数の本を読んだり、集会に参加して討論したり、
       いろいろな組織に加わったりして、日常の生活の中で起こる闘争や
       悲惨の救済策を発見しようとしています。
       つまり特定の組織なり導師なり書物などが、自分を十分満足させて
       くれたと私たちは言うのです。そしてその中に私たちの望んでいる
       すべてのものを見つけ出して結局、一定の型にはまり込み、自分の
       周囲に壁をめぐらせてしまうのです。
     
       あなたが神でも真理でも、名称は何でも良いのですが、そのような
       恒久的な満を求めるのであれば、まずあなたが求めているものを
       理解しなければならないのではないでしょうか。またあなたが、「私は
       恒久的な幸福(神あるいは真理)を求めている」という場合に、それを
       求めている人・探求者、つまり「私自身」も理解しておく必要がないで
       しょうか。

       自分自身を知るということーこの大切なことを私たち人間は無視
       しがちです。自分自身を知ることこそ、何かを築きあげることができる
       唯一の土台なのです。
       これは自明の理ではないでしょうか。ですから、私たちが何かを
       建設したり変革する前に、また非難したり破壊したりする前に、まず
       あるがままの自分を知らなくてはならないのです。従って何かを
       求めて歩き回ったり、指導を求め、次から次へ教師や導師を変え
       たり、ヨガとか腹式呼吸とか礼拝をしたり、師と言われる人の後を
       追ったりすることは、すべて無益なことではないでしょうか。

       自分自身を知るということは、行動している自分、つまり自己と他者
       の関係を知ることです。それが困難なのは、私たちがあまりに性急で
       忍耐が足りないからです。
       私たちは進歩を望み、目的地に到達することを願うあまり、学び、
       観察している時間も余裕もないのです。私たちは生計を立てたり、
       子供を養育したり、次から次へと雑事に身を縛られ、また一方では
       様々な組織の責任を引き受けたりもしています。自ら自省したり
       観察したり、学ぶ時間がほとんどないのです。

       あなたは自分自身を知れば知るほど、はっきり物事が見えるように
       なってきます。自己認識には終わりというものがなく、目的を達する
       ことも、結論に達することもないのです。それは果てしない河のような
       ものです。それを学び、その中に深く突き進むにつれて、あなたは
       心の平安を見出してゆきます。自らに課した自己修練によってでは
       なく、自己認識をとおして精神が静寂になったとき、そのときにのみ
       その静寂と沈黙の中から、真の実在というものが誕生しうるのです。
       またそのときのみ、無上の至福と創造的行為が生まれます。この
       ような理解も経験もなしに、ただ本を読んだり、講演を聞いたり、宣伝
       活動をしたりするのは、全く子供じみたことであり、たいして意味の
       ない行為だと私には思えるのです。それに対して、もし自分自身を
       理解して、そこからあの創造的幸福と、頭脳から生まれたものでは
       ない、あのあるものを体験することができるならば、そのときにこそ、
       私たちの周囲のものとの直接の関係の中に、従って私たちの住んで
       いる世界の中に、変革をもたらすことが出来るのです。
                                       
                           −クリシュナ・ムルティ


   こころの平安を求め、ある政党へ属してみても、ある宗教団体へ属して精神指導者に従ってみたところで、同じ趣味をもつ同好会やカルチャークラブへ入会し自分たちの楽しみを共有出来たとしても何一つ解決はしないと彼は主張しています。
   私たち身近にある生活は、国家や社会によって指示され、教育され、統制されていないでしょうか?国によって都合が良いように一定の鋳型(いがた)にはめられロボットのように操られてはいないでしょうか?国家は私たちが気がつくことを嫌っています。目を覚まさないように眠らせておきたいのです。我々が催眠術にかかって眠っているあいだに我々から搾取し続けるのです。政治家・官僚などエリートと呼ばれる人たちは、自分の財産・名誉・地位をしっかりと握りしめ絶対に離そうとも分け与えようとも思っていません。愚かな国民の目をあざむき騙し続けようと躍起になっています。
   皆さん頭の良い方たちですから、頭の悪い人をだますのは簡単です。そんなことをするために一生懸命勉強をしたのでしょうか?この優秀な頭脳をもっと利他、ほかの人や社会に役立てるつもりはないのでしょうか?
   政治や国家だけではありません。宗教・サークル・学校などすべての団体は、そのやりかたの中で個人を型にはめ個人の自由をコントロールしようとする傾向があります。その中で本当の自分を見出せるのでしょうか?あらゆる主義・主張・教義から自由でなければならないとクリシュナ・ムルティは、説いています。
  
   師祖ブルース・リーは、「私は、流派というものを信じていない。」と断言していました。「それが何式・何流だろうとそれがベストだとは思わない。自分に合うかどうかは、自分で判断を下して行くし、盲目的に一つの流派に身を捧げるようなバカことはしないだろう。」
   つまり自分自身をいつも見つめて自分は何を求め何が足りないのか、何に捉われていて何を捨てなくてはならないのか?彼は、こう自ら問い続けたのだと思います。いつも自分に問いかけ心の目を覚まさせておかなくてはなりません。自分の心を解放し、感受性をとぎすませ「何が必要で、何が必要でないか?」「何が合い、何が合わないか?」「何が本当で、何が偽か?」を判断していかなくてはならないわけです。
   いつも目をさまし、きずいていなくてはならないのです。これが覚醒というものかもしれません。「自己覚醒」「自己変革」「自己発見」へと何に対しても純粋な気持ちを持ち、うのみすることなく自分自身の道を求め歩き続けていく必要があるのでしょう。

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 「A punch is just a punch, a kick is just a kick.」

   
師祖ブルース・リーの書き残した文章の中に、「パンチは、ただのパンチであり、キックは、ただのキックである。」という言葉があります。「武道・格闘技の修行を始める前は、パンチは、ただのパンチであり、キックは、ただのキックであると思っていました。しかし武術の修行を始めるとそれがただのパンチではなく、ただのキックでもないと感じ始めました。そして長い間修行を続け武道を理解した時、やはりパンチは、ただのパンチであり、キックは、ただのキックであるという結論に達しました。」
   たとえば武道を始める前は、当然格闘技の知識や経験が無い訳ですからボクシング、キックボクシング、空手やテコンドーの試合を観ても、ただ漠然と突いたり蹴ったりしているなという印象しか持ちません。あるいは柔道やレスリングの試合を観ても、組んだり投げたり絞めたりしているなというくらいの印象しか残らないことでしょう。
   しかしある流派を習い始めると自分の流派と他の流派の違いが少しずつ判ってきます。パンチの出し方ひとつ取ってみても、顔の前から直線的に突いたり曲線的に突いたり、腰の横から突きを出したり、飛び込みながら突いたり、斜めに体をひねりながら突いたり、手首のスナップを効かせて突いたりと、さまざまなパンチの打ち方があります。キックも同じで、蹴るときに腰をしっかりひねったり、腰はひねらずヒザのスナップを効かせたり、ヒザを上げてから蹴ったり後ろから体を回転させながらキックをしたりいろいろなキックの出し方があります。
   たんなるパンチ、たんなるキックなのに、見た目が派手で華麗で観る者をほれぼれとさせる芸術的なパンチ・キックもあれば、逆にまったく単純で何の感動も与えることのない地味なパンチ・キックもあるのです。格闘の世界で、芸術性を追求をするのか?実践性を追及するのか?どちらでもなくとにかく精神性を追求するのか?それぞれの流派の特徴の違いが出てきます。言い換えれば「美しさ」なのか、「強さ」なのか、「心の修養」なのか、どこにどれだけのウェートをかけるのか割合の問題かもしれません。あるいは、練習者の目的意識によるのかもしれません。
  
   武道の修行を始めるとまず基本技の習得です。構え方、足さばき、攻撃技術、防御技術、攻防技術の組み合わせなどを学び、そうした技を組み手やスパーリングを通して実戦で使える様にと段階を追って練習をしていきます。
   ある程度、基本技術を習得すると自分の動きと他流派の動きをこと細かに比較・研究する人がいます。当然な欲求だと思います。まず自分の流派の動きをモノサシにして他流派の動きとの違いをくらべ強さや実戦性あるいは芸術性の優劣をつけようとします。当然、優劣がついたなら優を取り、劣を捨てることでしょう。一度ふるいにかける訳ですが、実用性のみに捉われず自分の能力に合い自由自在に使いこなせるのかという視点も重要だと思います。その技が自分の体格・運動
能力や性格にむいているか?習得可能か実用可能かという点も吟味しなくてはなりません。
   このような段階が、ただのパンチではなく、ただのキックではないと感じ始める時期なのでしょう。いろいろな技術に興味をもち、それを取り入れたり捨てたりしていくことが楽しくて仕方がないのです。花の色や形や香りを比較したり葉の大きさや模様やつやを比較したりするのと似ていますね。一番我々が目を奪われ、興味をそそられるところです。
   しかし師祖は、「植物のうわべだけではなく、花や葉や枝をならしめている根に興味を持つことが大切です。根は土にかくれて我々の目には見えませんが、土の中で植物を支えています。ものごとの本質や根本は、往往にして何かにおおわれていて見つけにくかったり気がつきにくかったりします。」と述べていました。「かっこよさや美しさだけにとらわれず本質根本・根源を忘れずに、道を進んで行きなさい。」ということでしょう。
  
   最終段階の悟りに似た境地にいたった人は、「やはりパンチは、ただのパンチであり、キックは、ただのキックであった。」と納得したとはどういう意味なのでしょう?
   さまざまな突き方や蹴り方を研究・考察し習得してきたが、どんな突き方をしたパンチもどんな蹴り方をしたキックも相手に当たればダメージがあり痛い訳です。いかに効率よく最小限の動きで最大限の威力を発揮するパンチ・キックの技術をいろいろと追及してみましたが、人間が2本の腕と2本の足で出すパンチ・キックにさほどの違いは無いということです。まっすぐなパンチ曲がってくるパンチ、相手の動きや自分の動きに応じてその局面の変化に応じてパンチを出すだけ
です。どのパンチもキックも本来とても単純な動作からなりたっていることに気がついたということではないでしょうか?
   どこかに秘伝技・奥義技・必殺技があるに違いないと思い込み捜し求めてみたものの実は、単なる幻想であった。とても複雑で習得に時間を用する技だろうと思っていたら、そうではなくてそれはとても単純なただのパンチでありただのキックであった。
   もうひとつ重要な心の変化によるとらえかたが違ったのではと思えます。ある人は、とにかくもっと素晴らしい技術があるに違いない、もっと強くなれる技術があるに違いないと外の世界へ放浪の旅へ出ました。そんな宝のような技を手に入れようと必死になり、心の中はそんな技に対する執着心でいっぱいでした。自分の持つあてにならないモノサシを使って長短や強弱を測ったり、いつも視界の色や形が違って見えるサングラスをかけて明暗や美醜を判断しながら宝の技を捜し求めたのでしょう。
   いつしか自分の持っていたモノサシとサングラスが、まったくあてにならないということに気がつきます。いままで自分は正しいと信じてきたやり方は、でたらめで自己中心的で自分に都合のいい解釈をしていたに過ぎなかった。このいい加減なモノサシとサングラスを捨てさった時に、初めて自分自身を含めたありのままの本当の姿をとらえることが出来るのでしょう。奥義・秘伝と称される技に執着していた心に気づき真実をみる純粋な心が現われた。執着を消し去るのではなく
執着している自分の心をもそのまま観るということだと思います。
   こだわりをもち偏見をもち「あれでもない」「これでもない」と言っていたパンチとキックは、偏見・執着を捨ててみれば一番最初に見た「ただのパンチ」であり「ただのキック」であったのです。ありのままのパンチとキックが見えるようになり理解することが出来たということでしょう。
  
   自分自身が最終段階まで到達しているわけではありませんので断言はできませんが、たぶんこういうことではないだろうかと感じたままを記述してみました。5年後、10年後にはまた違った理解に達しているかもしれません。その時には、今回の文章よりもっと自信を持ってはっきりとした表現が出来るのではないかと思ってます。
                                    
                                       11/20 , 05




 「あるがまま・・・なすがまま」

 
  たびたびこんな言葉を聞いたことがあるとと思います。思想や哲学や仏教関係の書物の中に良く出てくる言葉ですね。ブルース・リー師祖の書き残した文章の中にも出てくる言葉です。わかったようなわからぬような意味深な響きがあります。
「老子」や「禅」の教えを説く場合にこの言葉を使っていたように記憶していま す。たぶん自分自身のことであり身の回りでおこっていることについて「あるがまま、なすがまま」なのでしょう。生きていくうえで「あるがままの自分、なすがままの人生」をどうとらえどう理解すればいいのでしょうか?

   今現在の自分に満足している人はどれだけいることでしょう。やはり誰もが一つや二つの不平不満を持っているはずです。「生きることは、つまり苦しみで す。」と仏陀が説いたとおり生きていると苦しみや悩みだらけです。ただこれをあまり感じさせない方法があるようです。
   生きとし生けるものすべてが生かされているという自覚を持つともっと気楽に生きていけのはないでしょうか? 自分の力で生きているのではなく生かされている。では誰によって自分は生かされているのでしょう。神なのか?仏なのか?アラーなのか?タオなのか?真理なのか?それぞれの個人が模索・探求していかなくてはならない問題ですが、私は名前が違うだけ信仰が違うだけで同じようなものではないかと思っています。
     
   自分の力でなんとかなることなどしれています。努力したってすべて成し遂げることは不可能です。この世の中はどんなに頑張ってみても思い通りにはならないのですし、不公平なことだらけです。自分なりに努力して出来るだけのことをしてダメなら仕方ないでしょう。期待通りの結果が出なくともそこまで頑張ってみた過程において、色んなことを学び少なからずとも成長したはずです。それで充分じゃないですか。あとはサラッとあきらめる事です。
   楽しいことがあれば思いっきり喜び笑えばいいし、悲しいことがあれば思いっきり嘆き悲しめばいいのです。良い結果も悪い結果もおこることすべてが自分を 超えた不思議な力のはからいであり、良くも悪くも自分の身で引き受けなくてはなりません。何か不思議な力が作用しているのです。我々、愚かな人間がどんなに頑張ってみたところでは絶対に解明できない不可思議な世界があるに違いありません。
   我あり、我がものあり、我が力ありという我に執着した心から解放され、一切のものは皆、不可思議な世界に生かされている兄弟なのだ同朋なのだという意識を持つべきだと思います。人間も、動物も、植物も、物質も生かされあるがままに今を生きて、なすがままに今存在しているのでしょう。人間側からみれば、動物や植物や物質は下等なものだから、殺しても壊してもいいだろうと考えますが、すべてをつくりだした母なる不可思議な力からみれば、すべて平等なはずです。 しかし、この世を、人間側から見ると差別だらけ不平等だらけ苦しいことだらけです。
     
   時間とともに
す べてのものが変化していきます。永久不変なものはありません。自分の意志に反して子供から成人へ、そして老人になり死んでいきます。それ以前に死を迎える人もたくさんいます。体は時間とともに老化して白髪が目立つようになり抜けていき、顔のしわは増えて目も耳も不自由になっていきます。自分の力ではどうしようもありません。時間の流れを止めることは誰にも出来ません。これが無常であり、無常は苦しみであり真理なのです。
   あるがまま、なすがままにまかせておくしかないのです。こざかしい我々の努力では、どうにもなりません。あるがままを否定して自分のおもいどおりにしてやろうなど人間の思い上がりです。上手くいくこともあれば失敗することもあり、儲かることもあれば損することもあり、勝つこともあれば負けることもあり、 幸せなときもあり不幸なときもあります。自分だけ上手くやろう、儲けてやろう、勝ってやろう、幸せになってやろうと欲の皮がつっぱっていませんか?
 
    ブルース・リー師祖が出演したアメリカのテレビドラマの中でこんなセリフ
    がありました。
    
   「勝つことばかりに執着してはいけません。時には敗北を受け入れる心の
    準備をしなくてはなりません。」
   「生きることばかりに執着してはいけません。時には死をむかえる心の
    準備をしなくてはなりません。」
  
   「生きることで精一杯で、死なんて縁起でもない。そんなこと考えてる暇などない。」これが現実かもしれませんね。しかし死をみつめ自分の死を考えると、 逆に生が明らかになるのではないかと思います。若い頃は、自分の死はまだ遠い先のことだと考えていました。10代、20代の誰もが自分は、平均寿命の80歳くらいまでは生きられるだろうとタカをくくっていることでしょう。他の運の悪い人は、事故や病気で若くして死を迎える人もいるが自分は違うと思っていませんか?
   正直にいうと以前の私もそう思っていました。いや今もそういう気持ちが残っています。生に対する執着はなかなか捨てきれません。
   愚かな私には、「死をどう捉えるか」などという大きな問題について述べる資格も能力もありません。ただ漠然と「死とは生を受ける前の世界に帰る。」のではと思っています。死後の世界があるのかどうか?あるとしたら天国なのか極楽なのか、浄土なのかまだ行ったことがないので何とも言えません。遅かれ早かれ、いずれわかると思いますが・・・
   どんなに人間の科学が発達したとしても死のすべてを解明することは不可能ですね。「呼吸が止まった、心臓が止まった、脳が止まった。」この程度のことしか把握できません。これも我々には、理解できない想像を超えた不可思議な世界なのでしょう。
   時間は、永遠に流れていきます。永遠の中のたかが7、80年の人間の平均寿命。時の流れが永遠で無限だとしたら80年はほんの一瞬です。たとえ3年、 30年、50年の命だとしてもさほどの違いはありません。分母が永遠の時間∞(無限大)だからです。「長生きできて幸せだった。早死にして不幸だった。」 これは、我々が勝手なモノサシで計った見解です。
「長生きした人は価値があり、若く死んだ人は価値がない。」のでしょうか?そんなはずは、ありません。寿命は、自分では決められませんね。結局「あるがまま・・・なすがまま」人間にはわからない不可思議な作用に身をまかせるしかない訳です。
     
   すべての状況を素直に受け入れゆったりと生きていきましょう。肩の力を抜いてかたくなな心を捨て、しなやかな柔軟な心を持つと楽になります。私は、一生「あるがままのジークンドー3流指導員」として生きていくつもりでいます。
                                                 
                                          8/2, 05




 「プライドとは?」
    
  
 プライドという言葉を聞くと格闘技ファンでなくとも「時々テレビでやる格闘技の試合でしょう。」と答えが返ってくるほど、一般に知れ渡った大会になりました。まさしく格闘家としてのプライドを掛けてリングの上で戦うことから名づけられたのでしょう。しかし私は、このプライドという言葉に前から違和感を覚えていました。
   格闘技大会のネーミングには、ぴったりかもしれません。普段「男としてのプライドを持て!」「日本人としてのプライドを持て!」「国家公務員としてのプライドを持て!」「医者としてのプライドを持て!」など、この言葉を耳にしませんか?プライドは、何かとても高貴で大切なもののように捉えられているようです。その反面「あいつはプライドが高くて付き合いにくい。」と否定的に使われる場合もあります。
  では師祖ブルース・リーは、この言葉をどう考えていたのでしょう。幾つかの記述が残されています。

   「ほんとうに優れたグンフー家は、まったくプライドを持っていない。プライドは、本質的には自分の一部ではない何かから得られる価値観だ。プライドは、 他者の目に映る自分の地位の優位性を重視する。プライドは恐怖心と不安感を内包している。なぜなら高く評価されることを目指し、そうした地位を獲得した場合、自動的にその地位を失うことに対する恐怖心が芽生えるからだ。すると自分の地位を護ることが、もっとも重要な欲求に思えてきて、これが不安感を作り出すのである。自分に可能性と能力がないと、人はいやおうなくプライドを欲求する。人がプライドを
抱くのは、想像上の自己と同一化したときだ・・・プライドの 核は、自己否定なのである。」

   「タオの同化は、柔和さ、優しさ、意図の欠如、そして静けさにその基盤を置いている。これらはときに、空というひとつの言葉で表現される。攻撃的なスピリットは人をおとしめ、プライドは転落につながり、暴力は敗北という結果を招く。これらすべては、タオの正しい使用法を誤解していることから来る。」

   こうしてみると師祖は、プライドを否定的なものと捉えていたようですね。プライドとは、本当の自分を偽り、それ以上の姿を人に見せつけようとしたり、それなりに成功した時に持つプライドは成功から転がり落ちる恐怖心や不安感の原因になるということです。
   師祖の「ありのままの自分を正直に表現してみなさい。」という言葉からはほど遠く、プライドに執着してしまうと正直な自己表現が出来なくなってしまいます。プライドは持たないほうがいいようですし、持っている人は捨ててしまったほうがいいようです。しかし、これがそう簡単にいかないのでしょう。特に社会的に高い職業についている人、名声を手にしている人や高額所得者などにとってみればとてもむつかしい問題に違いありません。

       「職業に対してのプライド」
       「地位や役職に対してのプライド」
       「資産・財産に対してのプライド」
       「特殊な能力や才能に対してのプライド」
       
「ライセンスや資格に対してのプライド」
       「人種や血縁関係・家柄に対してのプライド」
       「宗教に対してのプライド」
   
   など思いついて書き出しただけでもたくさんありました。これをすべて完全に捨ててしまうことは出来ないかもしれません。誰もが心の中では、こう思っているのではないですか?「俺は才能があるから凡人とは違う。」「俺はこれだけの資格を持っているのだから他の連中とは違うのだ。」「本当の信仰を持たない人間は、不幸せだ。」「私は○○人だから世界一優秀な民族だ。」などと。自分自身に自問自答してみるとひとつやふたつ心の奥に潜んでいるプライドがあるように思います。普段おもてに出てこないだけで隠しているのかもしれません。
   人はみな実はプライドを持てるほど成功したいと考えているのでしょう。やはりプライドも人間が持つ欲望・煩悩のひとつであり根こそぎ取り去り捨てることは出来ません。結局プライドとはあまり捉われない執着しないでいたほうが心を乱さず平穏に生きていけるということです。最終的に行き着く所は、「中庸」の世界かもしれません。どちらにも偏らない、どこにも心を堅く固定せずに解放させておくことが自由を会得するコツなのでしょう。
   大手企業の役職に就いていた人、政治家、官僚などプライドを捨てきれずにその地位にいつまでもしがみつく醜い姿をよく見かけます。「自分たちが社会を動かしているのだ。」「私は、才能に恵まれた選ばれたエリートなのだから得をするのは当たり前だ。」「私は特別優秀な人間だから多少の間違いは許されるのだ。」「まだまだここでやらなくてはいけない職務があるからやめられない。」とプライドの高い人ほど横柄で自分勝手です。自分自身の本当の姿が見えていないようで、まさに裸の王様です。この国にはいかにこの手の王様が多いことか・・・
    
   師祖の禅の教えの引用でお茶の話があります。ある有名な学者が禅僧の処へやって来て禅の教えを受けようとした時、学者は今までの自分の専門分野のこと自分の功績など自分の考え方などを禅僧に得意になって話続けました。黙ってそれを聞きながら禅僧は、お茶を入れ学者の湯のみ茶碗にお茶を注ぎはじめました。 茶碗はいっぱいになり、こぼれ始めても注ぐことをやめません。学者があわてて「もうお茶はあふれています。これ以上は入りませんよ。」と怒鳴ると禅僧は、 「分かっていますよ。そんなことは、いわれなくとも。」「あなたはここへ教えを請う為にいらしたのですよね。それならばあなたの学んできた知識や経験はすべて忘れてしまわないと私の禅の教えは身に入りませんよ。まさに今のあなたはこのお茶が溢れだしてしまった茶碗と同じです。私のお茶を味わいたいならば、 あなたは茶碗を空にしなくてはなりません。身も心も一度カラっぽにしなさい。」とさとしました。
   この湯飲み茶碗を空にする喩えは、とても分かりやすい話で有名ですね。この有名な学者もやはりプライドが高すぎて素直に教えを請うことが出来なかったのです。とても優秀な人で学問の世界では努力をしてその地位についたのでしょう。しかし トップに立つ人は皆謙虚さに欠け、傲慢で自分の正当性を押し通す人が多い様な気がします。
   「いつも偉そうにして威張り散らしている、そんな人あなたの近くにもいませんか?」本当に自分を見つめながら生きている人は、そんな素振りすらしないだろうし、そんな雰囲気も感じさせないはずです。そこにいても気配すら感じさせない人こそが本当に悟った人なのかもしれませんね。
   「偉い人間になること」より「自分を自覚できる人間」に私は、なれたらと願っています。自覚とは、善も悪も兼ね備えた自分の本性に迫ると言うことです。 常に懺悔(さんげ)の気持ちを忘れずに嫌な醜い心をも直視していくことが出来るかどうか?良い格好ばかりして有頂天になっていないか?茶碗の底にプライドというほこりが たまっていないか?いつも茶碗を空にしておくことが出来るかどうか?いつまでも自分の心の中だけは空にしておきたいものです。
    
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