春の風景」

    
春の風景に良いも悪いもありません。
     いくらかの枝は長く伸び、
     いくらかの枝は短く、
     花を咲かせていれば、   
     つぼみのままもある。
   
   禅の教えを説くためにある言葉だそうです。師祖は、この言葉が書かれたボードをアメリカの道場に飾っていました。普通、我々が望む風景とは、なるべく大きな桜の木に、なるべく長い枝に、なるべく色鮮やかな花をなるべくたくさんの花をつけた木を好みます。すべてのことがらを  二つに分け、比較し、それに優劣をつけ、優を好み劣を嫌います。
   
  「荘子」の中にも良く似たたとえがあります。
     
    自然から受けた性であるならば、たとえそれが長いものであっても、長すぎると
    思う必要もないしたとえ短いものであっても、足らないと思う必要はない。小がも
    の足は短いが、これを無理に長くしようと引っぱれば泣き叫ぶであろう。鶴の足は
    長いが、これを切ってやろうとすればやはり悲鳴をあげるだろう。だから長い性を
    もつものは無理に切る必要はなく、短い性のものは無理に長くする必要はない。

   自然に与えられた姿に安心し満足し、これを越えた他者にまどわされることなく、ありのままを受け入れていくことが大切なのでしょう。自然とは、「それ自身に内在する働きによりそうなっており、他者の介入をいっさい受けないこと」です。つまり「知足安分」―足りていることを知れば、安心することができるー が自然であることは明らかでしょう。

   ありのままの姿をありのまま見る、ありのまま感じ、ありのままを引き受ける。「ありのまま」「そのまま」「ただただ」我のはからい(我執)からはなれ、自然にすべてをゆだねることの難しいこと・・・
   我を頼み、我の力を信じ、我の意志を通す、何事も自分の思いのままに物事を達成していく、つまりとことん自力に頼り努力し続ける生き方は、本当の生き方なのでしょうか?聞こえは勇敢そうで頼りになりそうです。すべて自分の思いどおりになれば、不幸はないはずです。体力も知力も才能も根性も運もすべて兼ね備えた人間なら、すべて思いどおりに成し遂げられるかもしれません。そんな人に、私は、人間的な魅力を感じるとは思えません。たぶん傲慢で、高飛車で、いつもいばっていて、やさしさのかけらも無い、冷たい人間に違いありません。
   
   自然の風景をみて、知識のある人は、花の名前を言い当て、何科に属するとか、原産はどこかとか、葉の形状やその花の咲く時期や寿命などを語るでしょう。それよりも、ありのままの花を見て「美しいな」「鮮やかな色だな」「甘い匂いだな」「けなげだな」とか感じる心のほうが大切だと思うのですが?感受性よりも知識が優先し、それが世の中では役に立ち、それがお金を生み、最終的に名誉を手に入れることができる。知識編重主義の今の時代にはとうてい受け入れられない考え方かもしれませんが、私たちが忘れつつある純粋な気持ちをもう一度思い返してみてはどうでしょう?
   この美しくけなげに咲いている花もいずれ枯れてしまう。この花に自分自身を投影してみる。花と自分を同じ命と捉え、花とひとつになり命のはかなさを感じる・・・自然の流れにすべてを投げ出し逆らおうとせず、流され続ける生き方も、私は悪くないと思います。
   
   武道の流派の違いも、この自然の風景に例えると理解しやすいかもしれません。長い枝、短い枝、太い幹、細い幹、まっすぐな枝、曲がりくねった枝、大きな葉、小さな葉、地中へ深く張った根、四方へ広がるように張った根。自然の風景のひとつ樹木だけを例に取り上げても、多彩な形容が存在します。そのたくさんある木の中で、我々はまず気になるのは、どの木が一番高価なのか?と値段が気になりお金でその木の価値判断をしようとします。武道ならば「どの流派が、一番強いのですか?」「プロになって一番稼げるのはどの流派ですか?」と聞くのと同じ次元です。
   自然の中に存在する木を一本を見て、人間が高い安いと論じてみても木にとってみればいい迷惑です。ただ自然の中に生かされてきただけなのに、勝手な価値を押しつけられ、あげくの果てに切られたり売られてしまうこともあるのです。まず私たちの身勝手な価値判断を止め、正面から何の先入観も抜きにそれを「それ自身」を観察してみる、恣意的な感情も抜きにして、ただみる。そこでどんな風に感じたか?人それぞれ皆、違うでしょう?

   どの世界の流派にも善し悪しは、ありません。その流派を継承してきた人々が、研究を重ね、鍛錬を通して自分に合った表現を体系づけて残したものが流派になったわけです。その流派を肯定も否定もする必要はなく、その洗練された表現方法が、自分に向いているのかどうかは自分にしか分かりません。決して他人から押しつけられるものではないはずです。自分にとって素晴らしいと感じるものを、自分はそうだからといって他人に押しつけるのは他の人にとってみれば迷惑なだけですね?誰もが経験して困ったことがあるはずです。
   興味があり好きであれば、興味が失せるまで続けるだろうし、そうでなければ途中でやめて他流へ移ればいいし武道だけでなく、他に興味を魅かれる趣味に出会えれば、それを始めるのもいいでしょう。あまり、かしこまって四角四面に考えるのもどうかと思います。

   自分自身も自然の力に生かされている身であり、その生き方に良いも悪いもありません。ある人は長く、ある人は短く、ある人は太く、ある人は細く、ある人は激しく、ある人は静かに、ある人は明るく、ある人は暗く生かされていきます。どの人生も一度限りの命を生きることには変わりはありません。人の人生に優劣をつけるような愚かな考えはきっぱりと捨てて、自分なりの生き方をすればいいのではないでしょうか?
   もうすぐ桜の季節がやってきます。どの桜の木も自然の恵みによって育まれ、年に一度の開花の準備をしているはずです。どんなに細く小さな桜の木も、人間の見方や評価などまったく気にすることなく、つぼみをふくらませていることでしょう・・・

   今年は、いつもより少し違った気持ちで桜をながめてみようと考えています。

                                         3/9,10

「ジークンドーとは?」

   
   
前回のエッセイを書いてからもう1年半以上もたってしまいました。「貧乏暇あり」の生活をしているので忙しい訳でもなく、いい題材が見つからなかったと言えるほど、いつも素晴らしい文章を書いている文筆家でもなく、正直なところただいつもの怠け癖が出て面倒だっただけです。いままで思うままに書いていた内容も読み返してみるとたいしたこともないし、時に知ったかぶりで偉そうな文章もあったりで・・・書くことに対してなんとなく気乗りがしないまま、書きかけのこの「ジークンドーとは?」はサーバーに転送されることなく今までほったらかしにしたままでした。生徒さんや友人からも「最近、更新されてませんね?」とたまに言われたり、そのたびに「ぐうたらなんで、そのうちまた書きますね?」とお茶を濁すような返事をしていました。
言い訳に聞こえそうでうすが、以前にこのエッセイで書いた精神的にウツの状態、心のなえた、弱った期間だったのかもしれません。文章を書くという活動に関してですが、さっぱりやる気がおきませんでした。
   そんなこんなで今回やっとこの題材最後まで書き終えてしまおうという気になりました。相変わらずたいしたことのない内容ですが、少しでも参考になればと思います。

   ふと気がついたのですが、このエッセイ欄では、遠まわしにまたは話の流れでジークンドーの精神にふれたことはあっても、面と向かって取り上げたことがなかったようです。
      「ジークンドーの哲学とは、こうである!」
      「ジークンドーの格闘技術は、こうである!」
   と言うような断定的な偉そうな言い方が嫌いなせいもあるし、その時その時によって考え方や理解の仕方が変わってしまうので、内容が支離滅裂になってしまうのでは思っていました。正直なところジークンドーの理解度について言えばまだ自信がありません。これだという確証も得られていません。私の習熟度は、どの程度の修行過程にあり、どの程度の理解が出来ているのか?さっぱりわかりません。わかりもしないのに知ったかぶりで、偉そうなことを言ったり書いたりするのは、不誠実だと思い避けてきたのでしょう。

   こうした自分の無能ぶりに対しての前置きをしておいて、では薄学な今、現在どのような勝手な解釈をしているのか?恥をさらして、そしりを受ける覚悟で書いてみようと思います。「やはりあいつは、ダメだな!こんなでたらめな理解でよく指導員だなんてやってられるな!」という声が聞こえてきそうです。

   御舘の自分勝手な個人的な解釈であることをはじめにことわっておきます。それも現在の解釈・理解でありもし将来、現在と違う考え方や違う理解に到達することもあるでしょう。その時は、また改めてどう変化したのかを考察してみたいと思います。

   まず師祖ブルース・リーの書き残したジークンドーに関しての文章をいくつか紹介しましょう。

   マーシャル・アーツには、空手、柔道、中国式グンフーあるいは中国式ボクシング、合気道
   韓国カラテなど、あらゆる闘いのアートがふくまれますーーー名称はどうあれ、これはあく
   までも戦闘的な闘いの形式です。つまりなかには完全にスポーツと化してしまったものもあり
   ますが、いまだにそうでないものもあるーなかにはたとえば金的蹴りや、目つぶしを用いる
   ものもあるということなのです。

   残念ながら現在のところ、ボクシング界の人々はパンチを打つことしか許されていない。
   ジュードーでは、投げることしか許されていない。わたしがその手のマーシャル・アーツを
   軽視しているわけではない。わたしがいいたいのは、硬直した型が、流派間の違いをつくり
   出しているということだ。そしてその結果として、マーシャル・アーツの世界は分断されて
   しまったのである。
   もうひとつの弱点は、流派が形成されたとき、その流派の人々が、自分たちのマーシャル
   アーツだけを唯一の真実として奉じ、それを修正したり、改良したりする気をおこさない
   ことだ。かくして彼らは自分たちだけの、ちっぽけな世界に閉じこめられてしまう。その流派
   を学ぶ者はマーシャル・アーツの型を模倣する機械と化してしまうのだ。

   実のところ、各流派にはそれぞれに長所と短所がある。どれも、見直しと改善を必要として
   いる。どれも視野が狭すぎる。自分たちの長所しか見えず、自分の短所と、ほかの流派の長所
   は見ようとしない。考えと視野を限定された人間は、自由にしゃべることができなくなる。
   それゆえ、真実を求めたいと思うなら、死んだ型に閉じこめられてはならない。      
        
       (The Bruce Lee Library 3 截拳道[ブルース・リーの格闘哲学] P.21)

   *フォームや型は答えではない
    グンフーのフォームやカラテの型をただひたすら練習するのは得策ではない。むしろ時間
   の無駄だろう。実際の(闘いの)シチュエーションにもマッチしていないからだ。ある者は
   背が高くある者は低い、またある者はがっしりしているし、ある者はほっそりしている。
   人にはさまざまな違いがあるのだ。かりにその全員が同じボクシング(マーシャル・アーツ)
   のフォームを学んだとして、それはいったいだれにフィットするのだろう?

   *最高の状態は、型のない状態である
    思うにマーシャル・アーツのもっとも高度な形態は、その適応において、いっさい絶対的な
   型をもつべきではない。そして、パターンAにパターンBで対処することが、絶対的に正しい
   わけでもない。マーシャル・アーツはひとつの輪のなかに限定されてはならない。それでは
   生徒たちの心に、ある特定のパターンが、実戦においても練習と同じ結果を生むという、
   誤った考えを植えつけてしまう。

   *なにが「最高の」マーシャル・アーツなのか
    全体の有効な断片化などというものはありえない。ここでわたしがいいたいのは、個人的
   には「スタイル」という言葉を信じていないということだ。なぜか?それは、3本の手や4本の
   脚がある人間が存在しないかぎり、地球上に、われわれと構造が異なるべつの種族が存在しない
   かぎり、異なるスタイルの闘い方は存在しえないからだ。なぜそういえるのか?それはわれわれ
   が2本の手と、2本の脚をもっているからだ。さて、ここで残念なのは、手を使うボクシングと
   投げ技を使う柔道が存在することだ。いっておくが、わたしはべつにこのふたつを見下している
   わけではないーーー
    しかし人々はスタイルゆえに、分断されている。スタイルが法律になっているせいで、団結
   できないのだ。スタイルを最初に創始した人物は仮説からスタートした。しかしいまやその仮説
   が絶対の真理と化しその道に入る人々は、その製品にされてしまう。あなたの状態、あなたの
   人となりあなたのつくりあなたの成り立ち、そしてあなたの経験とはかかわりなく・・・・
   まったく関係がないらしいのだ。あなたはただそのなかに入り、その製品と化す、そしてそれは
   わたしにいわせると、間違っている。
        
      (The Bruce Lee Library 3 截拳道[ブルース・リーの格闘哲学] P.27)


  *頭を使って敵を打倒せよ
    マーシャル・アーツのもっとも重要な側面が、「本質」と「実際的な活用」のふたつである。
   本質とは基盤を指す。健全な基盤がないかぎり、グンフーの実際的な活用はおぼつかない。
   すばやさ、力、粘り強さが、マーシャル・アーツのキーワードだ。
    截拳道は型や形式によって課せられるすべての制約を拒絶し、攻防における精神と肉体の
   賢明な使い方に重きを置く。ある種類のグンフーを、「ブルース・リーの截拳道」として特定
   しようとするのは滑稽だ。ぼくがそれを截拳道と呼ぶのは、敵を門で阻止するために、正しい
   瞬間に決断するという考え方を、強調したいからほかならない。
    もし人々が、ぼくのアクションを「道」と呼ぶつもりだとしたら、このアクションは截拳道
   と呼べるだろうー <ドラゴン怒りの鉄拳>のなかで、ぼくはロバート・ベイカーと闘った。
   劇中で彼は、ぼくの首を両脚で固め、動けなくしてしまった。ぼくの身体で動かせる部分は
   口しかなかったので、ぼくは彼に噛みついてやった!冗談をいってるんじゃない。截拳道には
   ほんとうに、凝り固まったフォームは皆無なのだ、あるのは次のような認識だけーーーもし
   敵がクールだったらそれ以上にクールであれ/もし敵が動いたら、それ以上に速く動け/手段
   ではなく目的に心を砕け/自分なりに力の操作法をマスターし、だが決して自分のフォームに
   制限されるな。

    JKDについて語るとき、人々はもっぱらその名称について語っている。実のところ、名称
   はさほど重要ではない。それは単に、われわれが学んでいるマーシャル・アーツのシンボルに
   すぎない。代数のX、Y、Zのようなものだ。名称ではなく、内容に重きを置かなければなら
   ない。なぜならそれが、JKDのパワーを如実に映し出す鏡なのだから。
      
     (The Bruce Lee Library 3 截拳道[ブルース・リーの格闘哲学] P.48〜50


  *形式も流派もない
    ぼくがこれまで型と形式について学んだすべてを捨て去ることを決意したのは、こうした理解
   によるものだ。実のところ、ぼくは自分が創案した中国式のグンフーに、名前をつけるつもり
   はさらさらなかった。いまだにそれを「截拳道」と呼んでいるのは、あくまでも便宜上のこと
   にすぎない。しかしながら、截拳道とその他のグンフーのあいだには、なんら明確な境界がない
   ことを、強調しておきたい。なぜならぼくは形式主義と、流派の区別という考えに、強く反対
   するものだからだ。
    あらためて強調しよう。ぼくはどのような種類のマーシャル・アーツも創案していない。
   截拳道は、これまで学んできたものに、ぼくなりの価値判断をプラスしたものだ。そのためぼく
   のJKDは、どのような種類のマーシャル・アーツにも限定されない。逆にぼくは、JKDを研究し
   それをさらに改良してくれる人を歓迎する。

    今回ぼくは、あなたの感情的な硬さを阻止した。つまり、ただ単にパンチを打つことができ
   さえしたらー頭から拳までのあいだに、どれだけ多くの時間が失われることか!

    截拳道はあらゆる方法を用い、なにものにも縛られない。そして同様に、その目的に適う
   ものでれば、どのようなテクニックや手段も用いる。勝利につながるものはすべて効率である。

    截拳道は単なる名前にすぎない。いちばん大事なのは、トレーニングに片寄りをもたせない
   ようにすることだ。ボクシングの原理はたしかに重要だが、実用性はそれ以上に重要なのだ。

    真の観察は、あらかじめ設定されたパターンを脱却したときにはじまる。

    システムを超越したとき、表現の自由が実現する。スタイルとは、人のある特定の性向に
   対する、類別化された反応である。

    真実は築き上げることも、密閉することもできない。

    忘れるな。マーシャル・アーツ・マンとは単に、生まれたときから備わっていたかもしれない
   剛勇さを、肉体的にひけらかすだけの者ではない。成長するにつれて、彼は自分のサイドキック
   が、相手を制する武具というよりも、自分のエゴその他の愚行を粉砕するための道具であること
   に気づくだろう。すべてのトレーニングは彼を、完全な人間に仕上げることが目的なのだ。
 
    「ありのまま」に対処するために、人はスタイルのないスタイルの認識と柔軟性をもたなけ
   ればならない。ぼくがいう「スタイルのないスタイル」とは、分断化とは無縁の全体性を有する
   スタイルを指すーー手短にいうと、考えうるすべてのラインを内包した、周のない円ということ
   だ。なぜなら、つまるところ、相手はあらゆるラインから攻める(あらゆる種類の乱れたリズム
   で)ことが可能だが、もし自分に対処できるのがストレートなラインだけだとしたら、それ以外
   のラインが正しい場合、動きが齟齬(くいちがい)をきたしてしまうのだ。「関係」という言葉
   を思い出そうーーーテクニックを使うというのは、相手とともに動く自分自身を研究すること
   であり、それがすなわち関係なのだ。
    もし1本のストレートなラインを追うだけだとしたら、いったいどうして関係を真の意味で
   理解し、感じることができるだろうーーーそこではストレートなラインという閉じられた
   アイデアのなかで、孤立することしかできない。そうしたアイデアは、いかにみごとなもので
   あっても、闘いの部分的な側面にしか目を向けておらず、抵抗というスクリーン越しに、相手
   と合わせようとしているのだ。たしかにストレートなラインの重要性は、疑うべくもない。
   振り子を例にとってみよう。片方の側(好みの側)にスウィングするには、動きをその反対側
   からはじめなければならない。
    なぜわれわれはもうひとつの側から孤立しているのか?実際、どうしてわれわれは、ひとつの
   継続したスウィングを、ひとつの全体としてみようとしないのか?
    「ありのまま」に対処するために、人はラインの柔軟性を備え、なにが与えられているかに
   従って瞬間から瞬間へと、適応していかなければならない。ひとつの全体の片割れをふたつ、
   すなわちストレートとカーヴをもつことによって、われわれは真の意味で、選択のない意識を
   もって選択のない意識は、ありのままの闘いのトータルな理解のなかで、対立するもの同士の
   調和を導くことができる。かくしてもっとも高度な段階では、人は円の中心となり、「イエス」
   と「ノー」が円周に沿っておたがいを追い求めるあいだそこにじっと立ちつづける。それが達成
   できるのは、制限を課す、あるいはどちらの側に立つといった考えを、すべて捨て去っている
   からだーーー人は直接的な本能のなかで安らぎ、それは原初の自由へと回帰している。
       
      (The Bruce Lee Library 3 截拳道[ブルース・リーの格闘哲学] P.54〜58


  *「道のない」道
   「道」があるとき、そのなかには同時に限界も存在する。そして円周があると、なかに閉じこめ
   られ閉じこめられると腐り、腐るとそこに生命はない。
    人は絶え間なく成長している。そしてその成長が止まるのは、決められたアイデアのパターン
   あるいはやり方の「道」に縛られたときだ。

    もっとも高度なアートは、アートのない状態だ。もっとも高度なフォームは、フォームのない
   状態だ。

    マーシャル・アーツの鍛錬においては、自由の感覚をもつことが必要とされる。条件づけ
   された精神は、決して自由な精神ではない。条件づけとは、ある特定のシステムの枠組みの
   なかに、人を限定することだ。

    伝統的なマーシャル・アーツのスタイルに縛られるのは、考えのない、隷属的なマーシャル
   アーティストのやることだが、伝統的なマーシャル・アーツに鼓舞され、さらなる高みに到達
   するのは、天才の所業である。

    何度でもいおう。リハーサル済みのルーティーンを乱れたリズムに適合させるのは、ひどく
   むずかしい!リハーサル済みのルーティーンは、適応のための柔軟性に欠ける。

    截拳道は集中や黙考を標榜するスタイルではない。それは在ることだ。経験であり、「道」
   ではない「道」なのだ。
             
        (The Bruce Lee Library 3 截拳道[ブルース・リーの格闘哲学] P.61

   
   以上、武道に対する考え方、ジークンドーのあり方を表現している文章を引いてみました。どの表現をみても根底にしっかりと添えられた哲学がかいまみられます。彼は格闘技の武道の世界において絶対の自由・真実へのめざめを主張し続けていました。
   限定・制約・固定された流派という枠から修行者を自由な世界へ解き放ち修行者一人ひとりにあった道(真実)へいざないたかったのです。世界中にある武道の流派は、その地域・国の歴史・文化を背景にさまざまな闘い方が生まれ変化して現在に至っています。手を使い相手を殴ったりはたいたり、足を使い蹴ったり引っ掛けたり、頭や肩を使いぶつかったり、投げたりひっくり返したり、動けなくしたり、のどや首を絞めたり、間接をのばしたりひねったり、はたまた目をついたり、噛みついたり人間の闘いの本能の許すままに格闘技として生まれ変化・分類されてきました。
   これらが世界中に存在する格闘技の流派として伝承され、現在も練習・研究されています。相手を制するという同じ目的を共有しているのにもかかわらず、どうしてこうも多彩な手法が考え出さられたのか?
   人間が、体格も性格も思考もほぼ同じであったならば流派もひとつだったかもしれません。生活環境や風土が同じであったなら、言葉や宗教も生活形式もあまり差がなかったのではと思います。ところが我々は、体格も、肌の色も、性格も、生活習慣も、言語も、宗教も違います。当たり前ですが誰ひとりとしてまったく同じ人間は存在しません。つまり、格闘技の流派も細分化されて多くのスタイルがあるのも当然なのかもしれません。さまざまな異なるスタイル、彼が言う「ボクシングはパンチしか使えない、柔道は、投げや絞め押さえ込みしか使えない。」限定されたルールの中で闘い方です。公平な環境下で競うために体重のランク分けというルールもあります。現在、ボクシングも柔道も空手もテコンドーも世界中でおこなわれているスポーツですから、ルールがなければ競技として成り立ちません。なるべくケガを少なく、わかりやすい判定基準をもうけ世界中へ普及させようと先人の苦労・努力があったと思われます。
   
   共通なルールのもとで試合・競技というかたちで勝ち負けを争うスポーツ的な格闘技(マーシャル・スポーツ)、中国の武術(うーしゅ)など、表演の美しさを競うアート的な格闘技(マーシャル・アート)強さよりも美しさに重点を置いているので格闘技のジャンルに入るのか?少し疑問が残りますが・・・演武の動作は、格闘技あるいはその要素が盛り込まれています。そして軍隊などで訓練されている殺傷目的のみを追求した格闘技(マーシャル・コンバット)。現在、格闘技・武道・武術と呼ばれているものは以上3つのカテゴリーに分類されています。
   ジークンドーの技術は、どのカテゴリーに入るのかと言われれば、武器は使いませんが最後のマーシャル・コンバットに属するのだろうと思います。彼は、すべての格闘技を「マーシャル・アーツ」と言っていますが、先に引用した彼の文章の内容を読むと美しさや試合場の勝負よりも、実践性をとことん追及していたように見受けられます。やはり3つの中では一番最後の「マーシャル・コンバット」を標榜していたという見方が妥当だと思われます。精神性・哲学性・東洋思想に重きをおいて究極かつ実戦的な闘技を追求していたのでしょう。
   師祖は、あくまで自分のジークンドーは、「マーシャル・コンバット」におけるフィールドで最高であるべきだ、意思決定をし努力を続けました。彼にはその道が一番合っていたのです。「マーシャル・アート」を好む人や「マーシャル・スポーツ」を好む人がいて当然です。ここでどちらが正しい、間違っているかを言い争うことは、愚行、不毛の争いになってしまいます。コンバットかスポーツかアートかは、好みの問題で優劣をつける問題ではないと思います。

   彼は、俳優として映画の中でジークンドーの実戦性をしっかり押さえながら、映像をとおして美しさダイナミックさを加味しそれを表現しようと努力しました。生前の彼は「私の職業は、俳優だが本来は、武道家である。」と語っていました。一生、武の道を追求していく武道家であるという自負を持っていたようです。
   生前の彼に、師事した直弟子の方々は、皆口を揃えて「彼のスピードと絶妙なタイミングは、素晴らしかった。」「今まで会った中では、最強の武道家だ。」と言われます。かなりの腕前だったことは、用意に推測されます。アメリカでは、交流のあった他流派の先生方からも一目置かれる存在であったようです。今となっては、その強さも伝説的に伝えられるだけです。
   では実際は、どうだったのか?私は、そう聞かれるたびに「会ったことのある人やいっしょに練習した人たちによると、それは強かったらしいですよ!」と答えています。ただ冷静に客観的に考えると「彼は世界最強でした。」と断言するのはどうかと思います。当時、世界のどこかに彼よりも強い人間は、存在していたかもしれません。本当のところ彼自身も、自分が最強か、最強でないかなどまったく興味は無かったはずです。ただ強くなりたかった、誰にも負けたくはなかった。向上心は、ひと一倍あったことは確かです。彼にとっての生きる目標は別なところにあったのではという気がします。
   肉体は時間がたてば、必ず衰え最終的には灰になるのです。強い弱いの価値判断がどれだけ重要なのか理解に苦しみます。師祖が強かったか?弱かったか?少なくとも私にとってはどうでもいいことです。師祖は強かったと信じたい人は、そう思い続ければいいし、いやたいしたことなかったと思えば、それでいいのでは・・・
   目くじらをたて、いがみ合うほどのことではないでしょう。この世にいない人のことを、「あーでもない、こーでもない!」と論争してみたところでまったく意味がないと思うのですが?

   我々は愚かですから自分の先生をNO.1に祭り上げることによって、さも自分が一番だと自分の優秀性を誇示したいだけなのです。師事した先生や開祖や才能のある自分の生徒を前面に出し、自分の優秀性をアピールするのは間違っています。私の先生は、1番です。その先生に師事している私は、いずれ1番になります。自分の先生を尊敬するのは自然な感情ですが、あまりにエスカレートすると妄信となり現実を見誤ることになりかねません。立派な先生に教えを受ける機会に恵まれ、素晴らしい経験をとおして学び成長しつつある自分がまず大切なのであって、自分の先生のランクずけにはこだわらない方がいいと思います。
    誰もが一番になりたい、有名になりたいがために、他を非難して自分の優位性を宣伝したい独占したい。人間が持つ自然な本能なので押さえがたいのも事実です。良くないことは皆分かっているのにやめられないなかなか気が付かないものです。「インチキ指導員」「自称インストラクター」と呼ばれてもいいじゃないですか?好きな道を歩んでいるなら資格などどうでもいいことです。目標に向かって修行を続けている進行形の自分自身がいれば、それだけで満足です。紙切れ一枚に血眼になるのもどうかと思います・・・?
   
   もし今やっている私のジークンドーは真理・法にかなっていると自分で思ったらそこにはおごりの心が存在しています。自分は法にかなって正しいと思ったら、他は間違っていることになる。法にかなったものどうしが法の名のもとに争いを始めかねません。以前にも書いた正義の名のもとに戦争を続けることと同じです。真理にかなった生き方、法にそった生き方をしているという思いを感じたら要注意です。そこには傲慢うぬぼれの芽が出始めているからです。ふと気がつくと自分の心の中にも、この芽がたくさん出ていて、摘んでも摘んでも次から次に出てくるんですね。手に負えません。
   他人からけなされたら反論したりけなし返したりせず「そうだ、そうかもしれない。自分にどこか落ち度があったから、そう言われたに違いない。」「自分はまだまだ
だ。もっと成長しなくては!」と素直に反省し自分の愚かさに気づく機会を与えてもらった。ありがたいことだと感謝しなくてはと切に願うのですが・・・素直にそう思えるほど、まだそこまで人間できていません。
「インチキ呼ばわりしやがって、コンチキショー!」という気持ちを抑えるのが精一杯です。

   私は、誰から何と言われようと今まで通り亜流・傍流・二流ジークンドーを続けていくつもりです。まだ終着駅に着いたわけでもないし悟りの境地に到達したわけでもありません。まだまだ気づかせていただくことが無数にあり、それに向かい一歩一歩大切に歩んで生きたいと思います。

   「法句経」の中に、「おのれこそおのれのよるべ、おのれをおきてだれによるべぞ、よくととのえしおのれこそ、まことえがたきよるべなり」という句があります。17、8の頃、少林寺拳法の道場に通っていた時に、大声で唱えさせられ、いやでいやでしょうがなかった思い出があります。「こんな胡散臭いお経みたいなのはどうでもいいから、はやく突き蹴りの練習しようや!」と心の中で思っていました。
   あれから30年以上、経った今やっとその意味が理解出来たような気がします。結局、頼るのは自分しかいないのだから、自分を磨いて自分を拠りどころにするしかないのだ。親も兄弟も先生も頼ってみたところですべて救ってくれはしない。仕事で失敗することもある、病気や事故で寝たきりになることもある、身内を失うこともある、地震や火事の災難にあうこともあるでしょう。成功や健康や幸せだけを願うのは身勝手な話です。たとえ寝たきりになったとしても、それは自分で引き受けるしかありません。「何も悪いことはしていないのにどうして俺だけが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ!」と怒り自暴自棄になってもどうしようもありません。
  
    寝たきりの状態で何ができるか?
    寝たきりになったら寝たきりで修行する。
    寝たきりを正面から受けて立ちましょう。
    健常者には、分からない
世界を見せてもらいましょう。
    自分なりの寝たきり人生をまっとうしてやろう!
   
   という覚悟を持って「おのれをよくととのえ、おのれをよるべに、まことえがたきおのれ」になるしかないのですね。
   
この「自灯明・法灯明」という有名な教えは、仏陀が入滅される前に弟子たちに説いた教えのようで一言でいうと「他者にたよらず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きなさい。」という意味だそうです。法・真理・理法・道みな同じではないかと私はとらえています。ジークンドーとは武道・格闘技を修行していく上での考え方・思想・哲学・概念であり、これを「法」と位置づけそれに沿って自分なりの練習をして自分なりの表現をしていくことではないでしょうか?。

   
私は、彼の強さよりも彼の残した映画よりも、彼の残した言葉の数々に魅了されました。「固定観念に縛られずに自由に、本当の自分をみつめ、自分にふさわしい道を、自分らしく生きていけ!」一言で言うとそういうことだと理解しています。
   今現在、自分がおこなっていることは、ジークンドーの教えにそった御舘流拳法だと思っています。「ブルース・リーズ・ジークンドー」ではなく「イノサントズ・ジークンドー」でもなく「バステロズ・ジークンドー」もないミタチズ・ジークンドー」です。両師から受け継いだ大切な技術や練習体系を基礎に自分なりの発想をもちいて改変・改良を加えています。出来の悪い脳みそに刺激をあたえつつ洞察力・想像力をしぼり出しながら、自分なりの新しい技術体系を組み立てようと努力しています。これが私の表現方法です。できれば飾りのない正直な純粋な表現であることを望んでいます。
   道場で指導している内容の3割〜4割は、帰国後に考案した技術を採用しています。もちろん根底にある基本はアメリカ滞在期間に習得してきたものです。今後ミタチ流オリジナルな部分が増えてくるのでは、と思います。そう考えると発祥の「ブルース・リーズ」からは、日に日に遠ざかって行くことに他なりません。言い換えると技術的には、原初からどんどん外れていきインチキ度が増すということですね。

   前出の師祖の文章をもう一度記しておきます。この言葉を忘れずに今後も同じスタンスで、自分を拠りどころとして練習を継続していくつもりです。

   「あらためて強調しよう。ぼくはどのような種類の
マーシャル・アーツも創案して
   いない。截拳道はこれまで学んできたものに、ぼくなりの価値判断をプラスした
   ものだ。そのためぼくのJKDは、どのような種類のマーシャル・アーツにも限定
   されない。逆にぼくは、JKDを研究し、それをさらに改良してくれる人を歓迎する。」   
                                   
ブルース・リー


                                                  
                                                 12/13,08

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