Be Water My Friend

 
Empty your mind, be formless, shapeless like water.
心を空にせよ。型を捨て、形をなくせ。水のように

Now you put water into a cup, it
becomes the cup,

カップにそそげば、カップの形に

you put water into a bottle, it
becomes the bottle,

ボトルにそそげば、ボトルの形に

you put it in a teapot, it becomes
the teapot
.

ポットにそそげば、ポットの形に

Now water can flow or it can crash.
そして水は自在に動き、ときに破壊力をも持つ
Be water, my friend.
友よ、水になれ

         By Bruce Lee

  

  このブルース・リーの有名な言葉は、娘のシャノン・リーさんが書かれた著書「Be Water, My Friend: The True Teachings of Bruce Lee」のタイトルにもなっています。ワシントン大学で哲学を学んでいたブルース・リーは老荘思想にかなり傾倒していたようです。彼が生前書き残したメモ、随筆の中には「老子」「荘子」を引用した内容が多々、みうけられます。いくつか紹介します。

 「上善は水の如し。水はよく万物を利し、しかも争わず。 衆人の(にく)むところに(お)る。 故に道に(ちか)し。」

   我々、人にとっての最高の善は、水のような存在です。水は生命の根源で地球上の生命はすべて水に依存しています。草木も動物も人間も水に生かされていると考えてもいいでしょう。万物に恵みを与え、利益を与えながら、しかも自分では その能力を誇ることがありません。従って他の者と争うということもなく、自らは多くの人々が嫌がる底辺の位置に身を置いて満足しています。だから私が理想とする道に一番ちかいということです。自然の中にある水のような働きをしなさい。自然に帰りなさい。人が作為的に創り出したもの、人の欲によってなされた行為を捨てる、つまり文明とか文化というものを否定することに近いかもしれません。つまり文明とか文化といったものはさまざまな弊害をもたらすから、こういうものを捨てさるところから、はじめて自然で高貴で安寧な生活ができるということでしょう。文明とか文化は常に変化、進化し続けてきました。当然、進化の過程で競争が生まれます。現在も世界中でどんな分野も熾烈な競争が繰り広げられています。文明が高度になればなるほど競争心も増長してきます。競争に勝てば喜び、負ければ悔しがる。昔も今も勝者はほんの一握り、それ以外はすべて敗者と相場は決まっています。ほとんどの人が負けて悔しがって地団駄を踏み不幸になる、これが現実ですね?ところが水は、あるとあらゆるこの世の生命に恵みを与え、その生命の成長を育むという偉大な働きをしてなおかつ、他人を押し退けて高い処に昇ろうとはしないで、逆に人々の卑しむ低い位置に身を置こうとする、全く競争心というものがない最初から競争を放棄しているのです。

  「天下に水より柔弱なるはなし。 しかも堅強なるものを攻むるに、これに能く勝つ事なし。」

  ブルース・リーが水の思想に開眼した時の逸話をアメリカのジョン・リトル氏が彼の著書「THE WARRIOR WITHIN(ブルース・リーノーツ/福昌堂,1997年発行)の中で紹介しています。

    ブルース・リーが17歳の時香港のビクトリア港のちかくで一人船に乗っているときに、深遠な経験をした。当時、彼は敵の強力な力を中和し自己のエネルギー消費を最小限にする穏健な原理を重視した中国武術の一派である詠春拳の修行に打ち込んでいた。ただ実戦において、それはなかなか難しいことに気づいていた。相手と戦うとき彼は怒って混乱し、敵の技術に対して合わせること(陰)ができず力(陽)使ってしまうのだった。一連の攻撃を繰り出す間、彼の精神にあるものは敵を完全に打ちのめそうということだけでした。詠春拳の先生、イップ・マン老師は、
「自分を忘れて相手の動きに従いなさい。」
「考えたりしないで精神に戦わせなさい。分離の技を学ぶのだ。ただリラックスすればいい。」
「リーよ、自然に従って、その道を妨げるな。自然に対して決して自己主張するな。どんな問題に対しても 決して正面から向かい合うな。共に揺れるのです。今週は練習しないでよい。家に帰って考えなさい。」
   そのような忠告で、ブルース・リーのフラストレーションは、とうてい治まるはずがなかった。それでも、彼は師のアドバイスを聞いて次の週、家にいた。何時間もの瞑想の後、諦めて船に乗り、一人で海に出ようとした。船が海の波を切り進んでいくとき、師が彼に言ったことがよみがえり、自分が陰の原理を適切に応用できていなかったことに気づいた。突然気持ちが高まり、全力を込めて水の中に拳を突き込んだ。その瞬間、新たな発見があった。
    ちょうどそのとき、その瞬間に、ある考えが突然浮かんだ。この水こそが正に基本的なもの、グンフーの基本ではなかったのか。何の変哲もないただの水が、私にグンフーの(陰の) 原理を説明してくれたのだ。今、私は水を突いたが、水は傷ついていない。もう一度、全力で水を突いたが、やはり傷つかなかった。それから手にいっぱいの水を掴もうとしたが、不可能だった。この水、世でいちばん柔らかい物質は、どんな入れ物にも自分を合わせることができる。弱そうに 見えるが、世でいちばん硬い物質に染み込むことができる。そうであった。私は水の性質のようになりたかったのだ。
   教訓はまだ終わらなかった。発見の喜びを味わいながら、ブルース・リーは水を眺め続けていた。そのとき、カモメが飛んできて、その姿を波に映し出した。これがブルース・リーの悟りの瞬間であった。
  水に心を奪われていたとき、もう一つ隠されていた神秘的な意味が私にやってきた。相手の前で持つ思考や感情は、水の上を飛ぶ鳥の姿のように、通り過ぎるのと同じではないのか。これこそ正に、イップ師が分離されるということで表現したかったことであった。・・・自分自信を制御するためには、自分の性質に対立するのではなく、共に進んでいくことによって自分自身をまず受け入れなくてはならない。
   ブルース・リーは、甲板の上で仰向けになり、自分が道と結びついていることを感じた。彼は自然の道と一つになっていた。船を自由に漂うままにして、ブルース・リーはただ横になって、内的調和を楽しみ、世の中の対立し合う力と思っていた多くのものは、実際には排除しているのではなく相互に協力していることを悟った。これを理解したとき、もはや彼の精神に葛藤はなかった。

  私にとって、世界全体は一つである。

   この経験と、そこからブルース・リーが得た結論は、この章の初めに記載した、彼の有名な水の話を生み出すことにつながった。ブルース・リーはこの水の話によって、敵と向かい合ったり、力と戦ったりする場合に適用される陰の原理を説明した。ブルース・リーは、水はあまりにも柔軟なので、手いっぱいに掴むことは不可能で、打っても傷つけることができないと述べた。それは同時に、世で最も柔軟で譲歩する物質が、それ自体でいるという事実によって、純粋な陰なのであり、物質の最も硬い形態に染み込むことができるという点で、純粋な陽である。静かな池の表面のように静寂でもあるし、ナイアガラの滝のように激しく暴力的でもある。水の性質は、自分自身をその行く手にある障害物へ瞬間的に適用し、自分のペースで動くことによって、自然のプロセスを開始することである。水から学ぶべき教訓とは、敵と共に流れることを学ぶことができれば、それ克服することになる、ということである。さらに、生の流れを通してのみ、我々は適用し成長することができる。実際、生は動きであり、 我々がそれと共に流れることを止めれば、それは我々を通り過ぎてしまうという結果を生む。ブルース・リ ーは言う。

  流れる水は決して腐敗しない。だからただ「流れ続け」なくてはならない。
  

   以上、「ブルース・リーノーツ」からの引用でした。ここで少し気になる箇所がありました。イップ・マン老師がブルース・リーを諭した時に「分離」という言葉が出てきました。
「自分を忘れて相手の動きに従いなさい。」
「考えたりしないで精神に戦わせなさい。分離の技を学ぶのだ。ただリラックスすればいい。」
「リーよ、自然に従って、その道を妨げるな。自然に対して決して自己主張するな。どんな問題に対しても 決して正面から向かい合うな。共に揺れるのです。今週は練習しないでよい。家に帰って考えなさい。」

   ここにある分離の技とは、何と何を分離しなくてはいけないのか?
  敵を前にし戦おうとする局面においてとにかく相手を叩き潰そうとそれだけを考え猪突猛進する。相手のことなど何も考慮しないで自分の技をやみくも繰り出すだけ、自分の戦術だけしか頭にない状態。心の中は怒りではち切れんばかりで冷静さのカケラもない、そんな血気盛んな青年への助言です。まずは自分の勝利のことだけしか考えられない勝利に執着しきった自我に気づかねばなりません。敵を叩き潰す、ただそれだけにとらわれている心を冷静な精神に移行して相手の反応にも呼応し自然に従いなさい。怒り、執着から分かれ離れて冷静な境地に身を置きなさいということかもしれません。分離というより自覚という言葉に近いのではと思います。怒りを冷静な心へ移していきさない。自分自身を全体である自然の中へ移していきなさい。自分が自然の中の一部分であることを自覚しなさい。とイップマン老師は言いたかったのでないでしょうか?

   ブルース・リーが水に気を取られていたときにカモメが飛んで来て海面に映し出されたその姿を見て何かを悟った。水の性質を理解出来たときにたまたま鳥が頭の上を通りすぎ、海面をとおして鳥の姿が目に入ってきた。鳥は偶然に自然の中で海の上を飛んでいた。下に誰がいようとどんな船が停泊していようが、まして誰が悟りを開いていようともまったく関係なく。自然のまま空を飛んでいただけです。しばらくしたら魚が飛び跳ねたかもしれない。風が吹いてきたかもしれない。ただ大自然の中で水の性質に気がついたひとりの若者がいただけだったのです。
   世界全体は一つであり、地球で起きていることはすべて同時であり、まさに自分がここにいかされている全体の中で……この世に生まれてきたのも喜怒哀楽とともに成長してきたのもいずれこの世を去って行くのも全体の一つ、私の生など自然の中のほんのかすかな存在なのでしょう。ほんのかすかなチリのような存在であってもそのチリをこの世に生かしたのも自然の力です。逆の言い方をすれば、チリのすべてが計り知れない大きな自然そのものではないかと私は感じています。


    最後にブルース・リーが「無」「空」について書き残した言葉を列挙しておきます。すべて「ブルース・リーノーツ」福昌堂からです。

    意に沿わないことも含めて次々と起こることの全てを受け入れることで、何も努力はいらない。「無心」とは感情や感覚のない状態ではなく こだわったり 拒絶したりすることのない状態である。 それは留まることを知らず 絶え間なく流れている川のように、 感情的な作用に対して心を動かされないことである。  ~ p.96

    グンフーの使い手はどんなことに関わっていてもそれにこだわらず 平静を保つことができる心を持っている。その思考の流れは、いつでも流れ出せる状態で池に水を入れるようなものだ。 水は自由であるがために限りない力を発揮できるし、形がないことから何事にもオープンでありえる。  ~p.98


    武道家にとって致命的なのは、精神が停止することといわれている。敵と命懸けで対峙するとき、心は遭遇する対象に釘付けとなるのが普通である。日々の暮らしにおける流動的な精神状態 が停止し、こだわりや障害のない流れが不可能になる。ついには自分をコントロールできなくな り、体が本来の動きをしなくなってしまう。すなわち、心に何かを持っていると、それに心を奪 われて何かをする時間がなくなるが、既にある思いを取り除こうとすると別の何かを再び取り入れることができるようになる。                
                               ~ p.100

   究極的には、目的を持たぬ状態にならねばならない。目的を持たないということは、空白を目的とすることであり、単に何もないということではない。思考過程に執着することが目的なのではない。その本質は、自然形のないもので、目的を入れられるものではない。そこで何かに執着すると、精神エネルギーはバランスをい、自然な活動は束縛され、流れることができなくなる・・・しかし、流動的な状態、心が空の状態、もしくは単に平常心といわれる、目的を持たない状態の場合、精神はどこにも留まらない。一方向に傾くこともなく、物事を超越し、環境の変化に空の心で臨み、まったく痕跡を残さない。        
                                ~p.100