Just as it is !

「ただそのまま」

 「最近はどうですか?忙しいですか?」
 「忙しくて相変わらず大変ですが、何とかやってます。」
 
  良く耳にする会話ですね。忙しくしているのが当たり前、忙しいことがとても好ましく順調なニュアンスが含まれています。反対に忙しくないと怠けてサボっている、「暇を持て余しているということは、お前は怠け者だ!怠惰な生活をしているダメな奴だ!」マイナスのイメージしかありません。「毎日、忙しく働かなくてはいけない。忙しいことは当たり前です。」多忙というのは本当にそれほど価値のある状況なのでしょうか?
  2015年に、大手広告代理店「電通」で若い女性社員が過労自死した事件が起こり去年から話題になりました。この会社は、1991年にも社員が過労死をして問題になったとの事です。同じ過ちを度々、繰り返し大切な命がまたひとつ散ってしまいました。「有名な大企業だからしょうがない。利益追求が会社の究極目標だからトップを走り続ける為には、多少の犠牲が出てもしかたない。」と会社の上層部・役員たちの認識は、その程度で社員の命を取り換え可能な部品のごとく考えていたのでしょう?
  中学校の先生も宅急便の配達員も子育てママも保育士も介護士もみんな大忙し、何十年も前から幾度となく日本の働きすぎは社会問題として指摘があったにも関わらず、まともに改善されずにたなざらしにされていました。今回はさすがにやり過ごすことが出来ず、行政も重い腰を上げ改善に向けて動き始めた様に見えます。ただどんな規則・法律を新しく作ってみた処で、私たち一人一人の仕事に対する意識が変わらないと効果は限定的な気がします。まずは、労働基準法を徹底的に遵守させることが重要だと思います。ブラック企業、ブラック中小企業は、星の数ほど存在しています。憲法を改正する暇があったらその前に、国民である労働者を守る、いや今ある労働基準法を守らせる努力をして下さい。「大企業の内部留保を吐き出させる。」とか、「ボーナスを上げる。」「ベースアップする。」も必要だろうし実際に社会はそういう流れに成りつつあります。とても大切で適切なことですが、それよりも最も基本的なきちっと労使の規約、約束を守る!当たり前のことをちゃんと当たり前に行う。男女格差、ジェンダーフリー、モラハラ、パワハラ、時間外・休日手当、重労働などの問題を注視して基本的な人権を守り維持していくことが重要だと考えます。何とかの日を新しく作るより、プレミアムなんとか日を奨励するより、何とかウィークを制定するとかよりは、ずっと効率的だと思います。

  仕事をどう捉えれ生きていけばいいのか?人が生きていくには当たり前の事ですが、最低限の衣食住に必要なお金を稼がねばなりません。「この最低限のラインをどのあたりに設定するか?」「自分の生きる意味や目標を何に置くか?」によってその人の人生は変わってきます。人の生き方や職種に、好き嫌いはあっても良い悪いはないと思っています。新聞や本を読んだりテレビを観ていて、世の中には色んな仕事があり、色んな生き方があるのだなと感心することがあります。
  ありきたりの趣味ですが本を読むことが好きでなるべく内容の簡単そうな思想・哲学・教育・エッセイ関連の本を読んでいるのですが、そこにはよく「時間に追われ忙しくしている状態は好ましくない。」という文章に出くわすことがあります。一番良く目につくのは、『「忙」という字は、「心」を「亡くす」という意味で、心を亡くした状態の「忙しい」は、決してほめられるような状況では無い。』とあります。「仕事ばかりに時間を取られていると人生の楽しみも味わえず一生終わってしまいます。それでいいのですか?仕事が生きがいという人もいるでしょうが、それ以外何も興味がないのですか?運よく大好きな仕事に就けたとしても、それに人生すべてを捧げてもいいのですか・・・?」といったようなことが書かれています。自分の外の世界に心を向けるのではなく、自分の内に心を向けなさいと促す内容です。
  「仕事」と「生きがい」は、やはり違うような気がします。生きるための楽しみがあるから仕事をする。多くの人はこのケースではないでしょうか?。「仕事が自分に取ってすべて、少しでも多くのお給料を手にするためにだけ毎日、懸命に働いています。」では、何のために生きているのか?仕事をして生活費を稼ぎ、たまには自分に取っての楽しみに時間とお金を使う。音楽を聞いたり舞台を見たり芸能を楽しんだり、スポーツをしたり観戦・応援したり、ショッピングをしたり、旅行をしたり、友人・身内と話したりメールのやり取りをしたり、お酒やお茶を飲みに行くのも良いじゃないですか?それほどお金のかからない楽しみ方も沢山あります。仕事のことをすっかり忘れ、ほっと一息つける時間はとても大切な気がします。ストレスや心配ごとから一瞬でも自分を解放してやる大切な時です。
   若い頃は、嫌なこと辛いことむしゃくしゃする事が沢山ありました。年を取った今よりも間違いなく多かったようです。そんな時は、サンドバックやパンチング・ミットを叩いたり時には、練習仲間とスパーリングをしたりジークンドーの練習やウェート・トレーニングをしてストレスを発散していました。最近は、少しづつこだわりが減ってあまり頭にくる回数も減ったのですが、それと同時に気力も無くなって「ああしたい、こうしたい、あれが欲しい、これが欲しい!」という強い気持ちが減退してきました。年を重ね以前よりもストレスが減った分、練習時間もかなり減ってしまいました。残念ながらすべてに対しての積極性や情熱が無くなってきました。すっかり今はやりの「がんばらない」生き方にどっぷりつかっています。これを言い訳に使い自分を正当化しているのかもしれません。大抵の人は、仕事をしていれば悩みごとの一つや二つあると思います。それを軽減あるいは解消するために、心をリラックスさせる時間も大切ですし必要になってくるはずです。
   次に紹介するひろさちやさんの『「狂い」のすすめ』という本の中には、目的に向かって努力するのではなく、生きるとは゛プレイー遊び ”だと書かれています。 この本の一番最後の章に書かれています。


   結論が出たようです。わたしたちはこの人生を、なにも世間に遠慮せず、しっかりと、-「遊びの」哲学-でもって生きましょうよ。そういう提案が本書の結論です。
   いま、わたしは゛しっかりと”と書きましたが、この言葉は誤解されそうです。そこで、゛遊び” といった言葉の意味を、もう少し考察しておきます。
   前章にも書きましたが、゛遊び”は、英語では゛プレイ(play)”ですが、この゛プレイ ”は゛ワーク(work)"に対比される言葉です。 そして、゛ワーク"は、ある目的を達成するために努力して行う仕事や労働を言います。
  「仕事・労働」といえば、英語にはもう一つ、゛レイバー(labor)”があります。゛ワーク "も゛レイバー”も同じく目的達成のために努力して行う仕事・労働ですが少しニュアンスに違いがあります。゛レイバー”のほうは
肉体的労働が中心になっていて、苦痛ばかりが多く、精神的な喜びのない労働です。それに対して゛ワーク "のほうは、肉体的・精神的労働の両方に使い、たしかに苦痛を伴いますが、精神的な喜びもある労働をいいます。
  だいたいにおいて、肉体的な労働が゛レイバー”で、管理的な仕事は゛ワーク "です。
  まあ、ともかく、何か目的を持って努力をすると゛ワーク " か ゛レイバー ”になってしまいます。われわれの「遊び」の哲学は゛プレイ ”であって、これは目的を待ってはいけないのです。
  いや、目的というものは、シナリオ全体を見ないと分かりません。何億年にもわたる仏のシナリオの全体を、われわれ人間が読めるわけがなく、わたしたちはただただ与えられた配役をプレイすればいいのです。「遊び」
の哲学です。
  いいですか、与えられた配役をしかめっ面をしてやってのけるのは、あんがい大根役者です。大根役者というのはまじめすぎる役者です。まじめすぎると、演技がこちこちになってしまいます。小学校の学芸会は、みんなまじめに演じています。もう少し肩の力を抜いて、楽しくプレイをしてください。といっても、それはなかなかむずかしいですね。 楽しくのびのびと演技ができるのは、よほどの名優ですね。わたしたちはどうしても、まじめに力をこめて演技をしてしまいます。
  しかしですね、わたしたちは仏のシナリオを演じているのです。そして演出家の仏は、それぞれの役者がのびのびとプレイすることを求めておられます。その演出家の要望にわれわれは応えなければなりません。だから、力んではいけないのです。
  どうか大根役者にならないでください現代日本人はまじめに働いて大根役者になっています。目的や目標に向かって邁進するのがいい演技だと思っています。でもそのような演技は大根です。仏のシナリオは、わたしたちが人生を「遊ぶ」ように書かれているのです。わたしはそう思います。



  もうひとつ紹介したい文章がありました。心理学者の河合隼雄さんの「無為の力」という本の中にも、ほっとさせられる文章がありました。


  「ある」だけで十分ではないかー今のひとはみんな、「何かしなければ」と思い過ぎるんですね。何かをしていることが当たり前で、何もしていない人はサボッてると思われるのが現代ですけれども、時々は何もしないでボーッとしているという時間を持ったほうがいい。普通の人たちがそういう時間を積極的に持つようになったら、だいぶ違うと思いますね。
  僕は、アメリカで向こうの人の生活をみていて気がついたんですが、「人類」って英語で「ヒューマン・ビーイング」でしょ。ところがアメリカには「ヒューマン・ビーイング」がいないんですね。では向こうの人は何か
  というと、「ヒューマン・ドゥーイング」ばっかりなんです。いつも「do」、つまり「あなたは何をしてますか」
  「私はこれこれをしています」ということばかり気にしている。本当はそれ以前に、もっと大切なこととして、「be」、つまり「私はここにいます」「ここに存在しています」ということがあるはずでしょう。それなのに、人間として「ある」ということに満足してボーッとしている人はめったにいない。みんないつも「何かをしなくては」とあくせく動き回って、「俺はこれをやったぞ」といったアピールばかりしているわけです。ですからアメリカに行った時は向こうの人に、「もうちょっとヒューマン・ビーイングになったらどうですか」と言って笑わせていたんですけれども。
  「何もしない」というのは、なかなか難しいんですね。まあお金がなくて、したくても何もできないという状態もありますが、本当ならちょっとぜいたくですけど、わざわざ時間を取って「何もしない」というほうが充実しますよ。まあ、僕の場合はもともと心理療法で相手がいても何もしないでいるんですが、最近では一人で何もしないということもだんだん上手になってきました。



  確かにアメリカで生活していた時を思い出すとそうでしたね、アメリカ人は、自分のしたことを誇らしげに話しいつも自分の優秀なところを褒めて欲しそうでした。「成功」するためにいつも考えいつも行動をしていました。「成功」とは、人によってとらえ方が違うので何ともいえませんが、たぶん世間では富と名誉と権力を手に入れることでしょう。成功するために自分を最大限大きく見せ、多くの人に認めてもらう。「私は、あれもこれも出来ます。それも得意ですよ!」自信たっぷりにジェスチャーをまじえアピールしてくるのですが、話は半分あるいは1/3くらいだと思った方がよさそうでした。
  その点、我々日本人は比較的ひかえめな性格な人が多いですね。「いえいえ、私なんかとんでもない、何もできませんよ!」謙遜するのが当たり前です。口にした言葉と内心の思いが違うということは正直ではない不誠実だとも取られます。これほど違う国民性、どちらも一長一短なんでしょうが、やはり日本人のわたしは「俺が、俺が!と前にしゃしゃり出る。」より「お先にどうぞ、どうぞ!」というほうが性格に合っています。もともと生まれつきノンビリでグズな性格ですから、先に行かれて手柄を取られようと、大金をつかみ損なおうともあまり気にならないほうです。全く気にならないと言えば嘘になりますが、「仕方ないな・・・縁がなかったな・・・あきらめよう!」と気持ちを切り替えるしかありません。「今までだってお前の人生、一度もそんな美味しいことは起こったためしは無いだろう?それがお前の宿業だ!」- 目に見えない大きな力にそう耳打ちされた感覚です。
  いいじゃないですか?他の人は欲しくて欲しくて仕方なくて、いままでずっと手に入れようと我利、我利と頑張って自分の10倍も努力したんだから、その人に手に入れてもらったほうがいいでしょう。相田みつおさんの有名な言葉で
 「セトモノとセトモノとぶつかりっこするとすぐこわれちゃう どっちかやわらかければだいじょうぶ やわらかいこころをもちましょう そういうわたしはいつもセトモノ」 
  まったくぶつかりあわない生き方、むつかしいですね。やわらかいこころもどうやったら持てるのでしょう?欲がある限りは皆、かたいセトモノでしょう?私は、さしあたってヒビ割れだらけの湯のみ茶碗ですか?お茶を注いでも注いでも漏れ続ける・・・いつまでたってもお茶を口に出来ません。割れて粉々になる一歩手前という感じです。これ以上ぶつかると粉々ですから、なるべくぶつからないように、最初から避けて近づかないように心がけています。


        
 
  時々、ふと思うのですが、映画の「寅さん」のような生き方がしてみたいなと。「寅さん」は実在の人物ではありませんが、「山頭火」「尾崎放哉」のように俳句に人生をかけ常識外れで破天荒な生き方もいいなと・・・「山下清」「松尾芭蕉」みたいな日本中を旅しながら絵を描いたり俳句を作ったりする生き方もいいかな?他にも「西行」「鴨長明」など世を捨て誰からも何からも束縛・制約をうけず自由気ままに生きた人がいます。自由な生き方に憧れたことは、誰でも一度くらいはあるのではないでしょうか?
  憧れはあっても、「じゃ本当にそんな生活ができるのか?」と問われればとても自分には出来ません。そんな無鉄砲をする勇気が無いからです。つまり現在の自分とあまりに違うから彼らの生き方に憧れるだけで、本当は心の底からそうしたいと望んではいないのです。単なるいつものないものねだりなんでしょうね。今の置かれた状況から離れてみたい、そうすればいずれ何か素晴らしい理想郷が出現するのではと勘違いしているだけなのです。
  「隠遁・遁世・出家・世捨」といった言葉に心をひかれるということは、年を取った、すでに人生の後半に差し掛かったという証なのです。「人の生き方に良いも悪いない。死に方にも良いも悪いもない。」とよく言います。生き方も死に方も自分の思いどおりにはならない。自分の力を頼り、どれだけ努力してもではどうにもならないことは沢山あります。今までの自分の人生を振り返ってみると8割は予定外だったような気がします。ただ自分の思惑どおりにはほとんど進まなかった割には、不幸でもなかったかなと感じています。「すべて気の持ちようだ、とらえ方次第で幸せにも不幸にもなる。」とよく言われますが、的を得た格言だと思います。みつをさんの「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」という有名な言葉もありましたね!
  「種田山頭火」「尾崎放哉」「山下清」「松尾芭蕉」「西行」「鴨長明」彼らは、自ら自由に生きようとは考えていなかった。そんなことはこれぽっちも考えなかったのでは?と私は思います。自分の好きな生き方しか出来なかった。あんな生き方しかさせてもらえなかった。自由という言葉に憧れるということは、今の自分が縛られて自由ではないと思っているからでしょう。現代社会に生きているわたしたちは、色んなものにしばられて窮屈さを感じながら生きている。だから彼らの生き方がとても自由に新鮮に見えてしまうのでしょうね。
  たぶん彼ら本人たちは、自分が自由奔放に生きているということさえ自覚していなかったのではないでしょうか?ひろさんが言う大根役者ではなく、楽しく力まずに自然な演技をした名優だったということでしょう。自分で俺はこう生きるのだと決めて、それを目標にして努力したのではなく、おのずからなるがまま、無為のまま、風や雲や水の流れに身も心もあずけそのまま生きて死を迎えたのでしょう。何かに心を突き動かされ、ただ好きな事をして、それをやり続けた。自分の理想の生き方から脱線したかもしれないがそうするしかなかった。何度も落ち込んで失望し挫折し、劣等感にさいなまれ何度も反省しながらも生かされて行く、すべての人に程度の差はあれ共通しているのではないでしょうか?つまり自分の力で生きているのではないから、人の生き方には良し悪しはまったく関係なく、どんな生き方、死に方をしようとも関係ない。そんなことにこだわる必要は、まったくない「ただ受け入れるだけ、そのままでいい!」と私は理解しています。
   
  この世に起こるすべての事象が目に見えない大きな力に影響されているわけですから・・・「自」おのずから「然」しからしむる「人」のはからいにあらず。「自然」「じねん」仏教的な解釈がぴったり合うように思います。この「じねん」が総指揮・総監督を引き受けこの地球上で壮大なドラマをくりひろげている。この地球という舞台には、現在約75億人の配役があり毎日、上演されているということですか?命がつきその役柄が終わると極楽という名の楽屋に戻っていくのでしょう。ほんの一瞬で終わる役もあれば、100年以上も演じなければならない役もあります。自分の役柄は自分では決められませんが、演技を終えて行き着く楽屋はひとつだけなはずです。みな同じ場所です。この楽屋は大部屋で皆すべて平等で平座です。仏教では、「倶会一処」(くえいっしょ)という言葉があります。「お疲れ様!」一刻、一刻、掛け声が響いています。そこには多分、もう一度違う役を引き受け、これから出番を待っている人々もいるのでしょうね?「行ってらっしゃい!」の掛け声と共にこの世に生を受け新しい役を演じ始める。このふたつの声をいつも聞き取れるような心を持ち合わせていたいと切に願っています。「生と死」言葉は反対の意味にとらえられがちですが同じなんですね?「生は良いが、死は悪い。」生だけを考え生きていくと、ある時あわてふためいて恐怖におののくことになるかもしれません。
  生死は同じです。今までこの世に生を受け死を受け入れこの世から去っていったすべての人々が、同じ楽屋にいると考えると寂しくも悲しくも不安もないなと感じるのは私だけでしょうか?祖父も祖母も父も母も早世した弟もそこで待っていてくれると思うと・・・
  75億人の中の一人、今よりいっそう力を抜き、そのままがんばらずのびのびとした演技をしていければと願うのですが・・・待てよ、よく考えたら無理やり力を抜く必要もないのですね!自分で努力する必要もなく今のまま、すべてをまかせて生きれば、生かされればいいのでした。頑張りたければ頑張れば・・・怠けたければ怠ければ・・・「じねん」は、おのずとそうなるのですよね?力んで演技する大根役者の存在も自然にそうなってしまう訳です。名優がいて大根役者がいてそれで良いのかもしれません。