After the founder passed away!

「師なき後を想う」

 
人にたびたび聞かれるという理由もあるかもしれませんが、これをきっかけに想いをめぐらせた経験があります。
 「もしブルース・リーが今生きていたらどうしているだろうか?今、どこにいて、何をしているだろうか?」もちろん想像するしかありません。
この質問に対して、あくまでも勝手な妄想を繰り広げてみようかと思います。

  彼は、1973年、世界中で大ヒットした代表作「燃えよ!ドラゴン」の公開1ヶ月前に、この世を去っています。その後、あれだけの大成功を収めた事実を知らずに他界したわけです。ただ完成したフィルムの最終チェックを終えた時、「間違いなくこの映画はヒットする!」と確信したそうです。世界中で名が知れ渡り巨万の富を手に入れた後、どういう生き方をしたのだろう?

  生前、彼の残したメモの中には、「40歳になるまでに映画で成功を収めひと財産を築いた後は、世間からは離れ自分の理想とする思想・哲学を求め安穏とした生活に入るだろう。」と記されていました。自分は、あくまで武道家だとこだわっていましたから、年を取って動きが鈍ってもなお映画を作り続けたとはとても思えません。スクリーンの中で納得のいく華麗な動きが出来なくなり最高のパフォーマンスを見せられなくなった時には、あっさりと映画製作の世界から身を引いたのではないでしょうか?「燃えよ!ドラゴン」公開後は、当然ハリウッドから再度、出演依頼が何本も入ったでしょうし、40歳になるまでの7年間で何本かの映画に出演したでしょう。このあたりまでは間違いないと思います。
   
  「その後は、彼はどういう生き方をしたんだろうか?」
  この問いに創造力を働かせながら、たぶんこうではなかっただろうか・・と推測してみます。皆さんも自分なら「こうなってたんじゃないかな?」と私とは違う視点から見て想像するのも楽しいかもしれませんね?

  たぶんアメリカで映画出演・製作を終えてより高額なギャラを手に入れ、もっと名声も上がったことでしょう。映画界から身を引いた後、武術の修行を続け思想的探究をしながらジークンドーの哲学的体系を具体化していったのではないでしょうか?アメリカに残ったか、他の国へ移住したか?それは分かりませんね。以前に一緒に練習した弟子たちが戻ってきて、新しい道場を立ち上げたかもしれませんし、以前のように自宅のガレージでセミ・プライベート的に指導したかもしれません。ジークンドーと創始者ブルース・リーの名は世界中に轟いている訳ですから、「あなたのジークンドーを教えて下さい。」と世界中から人が殺到したでしょう!投資家からは、ジークンドー道場をフランチャズして世界中に広めようと安易なビジネス展開の話も舞い込んだかもしれません。20代の若かった時には、そんな夢を持っていたという話は残っていますが、富も名声もすでに手中にした40代の彼が、今さらそんな提案に興味を示したか?それは無かったのではと私は推測します。
  支部道場のフランチャイズ展開はせずに、自分の考えにそって自分なりの練習を続けたと考えるのが自然でしょう。彼は武道家であり俳優でありアーティストですから、指導員には向いていなかったのでは?と思われるふしがあります。まず性格が短気だったこと、武術的な反射神経や運動能力が人よりも抜きんでていたこと。アメリカ滞在に見切りを付け香港へ帰るまでロサンゼルス・チャイナタウンで開いていた道場、振藩国術館も通常クラスの指導は、ほぼイノサント師父が受け持っていました。たぶん初心者を相手に、基本から手取り足とり指導を行うことはブルース・リーに取っては苦痛だったようです。中級者以上のレベルの生徒さんへ一対一のプライベート・レッスンあるいは2~3人のセミ・プライベート・レッスンであれば、生徒さんに取って最も足りないところへ的確なアドバイスと指導がおこなえたでしょう。一人ひとり習得能力も習得段階も違う訳ですから、指導をするには、人数は少ない方が効率的だったはずです。もし「指導員にもっとも必要な資質は?」と聞かれたら私は、「1にも、2にも忍耐です。」と答えます。
  たぶん彼は、気心の知れた以前の生徒さん、熱心で謙虚な新しい生徒さんを受け入れ、自宅の裏庭で共にジークンドーの技術体系に磨きをかけ、読書三昧の日々を送りジークンドー哲学確立をめざして生きていったと思います。たまには、テレビ出演したり雑誌や新聞の取材を受けたり、本も出版していたでしょう。もうじき存命なら83歳になる彼の容姿だけは、想像出来ません。映画の中の若く強くエネルギッシュなイメージが強すぎて・・・やはりヒーローは、永遠に若くてカッコイイんですよね!これですべて良かったんです。ヒーローに、「もし」「たら」「れば」の付く邪推は必要ないんですね?最初から決まっていた苦難と栄光の32年間を彼なりに生かされ生き切った、ということでしょう。

  前のエッセイにも触れた記憶がありますが、フランチャイズするには教則本、指導マニュアルを作り練習内容を画一化させねばなりません。世界中のどこの支部道場もまったく同じ動作を同じリズムを反復練習をせねばなりません。それを強制され型にはめられ自由な発想や創造力は押し潰されていまいます。どの流派にも原理・原則はあるでしょう。それをも理解・習得せずに最初から自由勝手な練習をすれば良いというものでもありません。皆、人それぞれ特徴・個性があり上手く出来る動きもあれば苦手な動きもあり、長期間の練習をすれば出来るようになる人もいれば、一生かけても出来ない人もいます。マニュアルは人をふるいにかけ選別し出来なければその時点で落後者を生み出してしまいます。出来ない人、下手な人、おぼえの悪い人は、必要ないのでしょうか?
  中には少数かもしれませんが、マニュアルはあくまでマニュアルであり、完全にそれに寄りかかるのではなく、参考にし自分なりにアレンジをして本質に近づこうとする優秀な修行者も出現することでしょう。マニュアル指導を100%否定はしませんが、ブルース・リーが理想とした教授法ではないと思います。彼の残した文章の中に、次のような言葉があります。
  
  「よき教師はマニュアルでつくられるようなものではない。よき教師は、生徒たちに血の通わないパターン、あらかじめ用意された公式を押しつけ、型にはめるようなことがあってはならない。」 
  ブルース・リーが語るストライキング・ソーツ p.126
   
  「教えることは、密接な関係を結ぶことである -私は大組織を決して信じない。その国内外の支部や系列の組織なども同様だ。大勢の人に働きかけようとすれば、何がしかのシステムが必要になる。その結果、関係者は全員そのシステムによって条件付けられるようになる。私は少人数にのみ教えるやり方を信条としている。
  なぜなら少人数制では、本物の、密接な関係を確立するための手段として、一人ひとりを常に注意深く観察することが要求されるからである。」
 ブルース・リーが語るストライキング・ソーツ
p.128

  マニュアル教授システムは、明らかにブルース・リーが理想としたジークンドーの教えからは、外れてしまいます。では絶対にそれはダメなのか?完全否定される方法なのか?そうも思いません。薄く広く伝わるという点では、良いのかもしれません。真髄までは伝わらなくても表面的な部分は伝わるでしょう。短期間のうちに、一人でも多くの人に伝えよう広めよう普及させようと思えば、マニュアル・システムしかありません。多くの人が、集まれば集まるほど、さまざまな問題が起きてきます。人間関係、金銭問題、権威問題など必ずトラブルになります。「人は3人集まれば、2対1に分かれ争いを始める。」と言われています。お互いにいがみあい、罵倒しあい、憎しみあう、それほど愚かな存在なのです。もちろん私を含め、欲にしがみつき流され、少しも理性が効かない愚かな人間なのです。どんなに立派に博識で知識が有りそうにふるまっていても、どんな立派な資格を持っていても、どんな高位な役職についていようとも人としての愚かさは同じ。程度の差はあれ50歩、100歩だと思います。今までも間違い、失敗だらけの生き方をしてきて、これからも死ぬまで後悔の連続だと考えると、ため息しか出ません。
  ジークンドーという武道に出会い、それを指導する立場にいる訳ですが、今まで何百人もの生徒さんが去って行きました。自分の教え方が至らずに、私の人間性にあいそをつかせやめて行った人も多々いたはずです。「あんなアホな先生には、ついて行けない!」と言われていたのでしょう。ただ道場内では、いつも心がけている事があります。「いばるな!えらそうにするな!同じ目線で!」そんなことでは先生としての威厳に欠けるじゃないかと思われるかもしれませんが、それくらいが調度良いのです。どんなに心がけていても横柄な生意気な自分が突発的に表れ、後で反省しきりという事がよくあります。モグラたたきゲームと同じ、叩いても叩いても傲慢、横柄、生意気、自分勝手は、次から次に頭をもたげてきます。少しは、謙虚な人間に近づきたいものです。

  マニュアル・システムで、
100%は伝わないかもしれない?でも半分は、50%くらいは伝わるかもしれない。半分もあればそれで充分という肯定的な捉え方もあります。それを承知の上でそのシステムを採用し残りの伝わらない部分をどう穴埋めしていくか?そこを自覚して、足りない部分を補っていく方法を考え補習していけば70%~80%くらいはカバー出来るかもしれません。
  中にはとても習得能力の優れた人もいます。 「一を聞いて百を知る。」ようなとんでもない天才がいます。とても想像力、洞察力が秀でた人は、マニュアルで50%しか伝わらないどころか、そこに書かれていないことまで推測してそれ以上200%、300%も
理解してしまう人もいます。
  もうすで失伝してしまった技を、古文書や教伝書をひも解きながら研究、工夫しながら再現されている有名な古武術の先生もいらっしゃいます。個人的には、とても興味があります。失った宝を見つけ出す過程は、わくわくするしそれを発見した時の喜びは何物にも代えがたい満足感が得られるのでしょう!200年、300年前の人達は、どう動いていたか、?どれほどの運動能力を備えていたか?間違いなく現代人よりも力強く、たくましく、耐久力もあったことでしょう。よくコンピューター・グラッフィクでの再現映像などが映画やTVで流されますが、それを自分の身体で再現する・・・ とてもロマンティックな世界じゃないですか?それを生きがいにしておられる先生からは「そんな甘いもんじゃない!」と叱責されそうですが?
  1流の指導者になれなかった自分の心構えとして少なくても自分がアメリカで経験して体と心で吸収してきたものは、すべて包み隠さず、出し惜しみせず生徒さんに全部伝えようと考えています。習った中途半端なジュンファン・グンフーのテクニック、勝手に自分で改変、創造した自己流ジュンファン・グンフー、ジークンドーの思想など、すべて公開し後身に授ける。これが良き指導者の役割ではないかと?弟子にすべてを渡して去って行く。教えとは、そういうものだと思います。
  自分が知らなかった技を習った時の感動、それが徐々に上手く出来るようになりワクワクした思いを他の人にも共有して欲しい。「こんな技があったんだよ!すごいよね!」と分かち合い一緒に喜びたいのです。ささいな幸せかもしれませんがひとりで自己満足してないで皆で楽しみましょうよ!修得した技術や教義を自分のだけのものとしそれをひけらかし自慢し悦に入るというのは歓心出来ません。
いつまでもNo.1のプライドを抱え込んでいないで捨てた方が良いのでは・・・?
  自分より優秀な弟子を育てて次の世代にそれを伝え残していく、それが良き指導者の使命だと心にとめ道場で教えています。
  
  進化・進歩が全ての面において良いのか?進歩しなければいけないのか?古いもの伝統的なものはすべてダメで、新しく発見されたもののほうがすべて優れているのか?科学や医学は、永久に進歩し続けるでしょう。しかし、それによって人間が本来持っていた、動物的な能力や感覚は退化してしまいました。新しい発見が、またひとつ人間の所有する能力の喪失につながることもありえます。本来、私たちが自然に身につけ、当たり前に使っていた体の使い方を忘れてしまった。気がつかないだけで、すでに喪失してしまった感覚は沢山あるような気がします。
  前に進み続けなくてはいけないのだろうか?すべて進歩が良いのか?成長しなくてはいけないのか?年を取ってから、たびたび頭をよぎります。経済も成長が永遠に続くとは思えないと人々は、気づき始めています。「もう良いよ。充分、進歩し成長したから。もうそんなに自分にムチ打たなくても、これからはノンビリと気ままに生きて行こう。」という人々も増えて来ています。
  進歩で得たもの失ったもの、たくさんあったはずです。でも科学や医学は永久に進み続け、止まることも後退も許されない。そして毎年、ノーベル賞が話題になります。人間に欲が有る限り、何事も前へ進み続ける・・・当たり前ですね。
  すべての分野の進歩・進化・発展のおかげで、生活がより便利になり、効率的になり、利益が増える。その反面、人間の運動能力、潜在意識、第六感(インスピレーション)、抵抗力、自然治癒力等が退化減少していくわけです。進化と退化のバランスは、どの程度で成り立っているのか?興味があります。プラスとマイナスのバランスの取り方は、その人、個々の考え方、受取り方により変わって来るのでしょう。その人の生き方・哲学にかなり左右されると思います。体調が悪くてもなるべく薬を飲まず、医者もめったにかからない人もいます。なるべく車や電車に乗らずに徒歩や自転車を使う人、エレベーターやエスカレーターをさけて階段を使う人もいます。都会での生活を嫌い田舎で暮らす人もいます。
インターネットやスマートフォンなどを使用せず固定電話、FAXや手紙を使う人もいます。新製品が出ればすぐ買う人、古いものをいつまでも使う人もいます。どちらが都合が良いかは、個人の選択であり他人がとやかく「どちらが良い。悪い。」と言う必要は無いでしょう。
  プラス(ポジティブ)とマイナス(ネガティブ)のバランスの取り方は、その時代によりその個人の考え方により変わり続ける。自分自身に取って精神的な陰陽の調和をどのあたりで取るかに似ているような気がします。どんな生活環境に置かれようと気持ち、心のバランスを保つことが出来ればあまりイライラせず、不満も怒りも無い平和な日々を過ごせそうです。ただ多少のストレスは、生きていくうえで必要だと言われていますから、適度な刺激やストレスを感じることは必要ですね。
   
  結局のところいつも同じような結論に達してしまうのですが、どちらかへ極端に偏らない方が良いということですか?プラスとマイナスがあればそのバランスの取り方は沢山あり、プラスよりの時もあればマイナスよりの時もある、調度ど真ん中に位置する時もあるのでしょうが、それを測定する目盛りが無いのです。中庸が大事という考え方に賛成ですが、中がどのあたりなのかよく判りません。たぶんヨットの操縦に似ているかもしれません。風や波の自然の変化に合わせ帆の角度や長さを変えて船体のバランスを取り進んでいく、人の生き方と同じかもしれません。なにも最短距離を最速で進まなくても、転覆しなければ良いし、もしひっくり返ったならば、船体を起こしまた始めるだけのことです。風や波のような自然の変化は、その時代の医学や化学の進歩によりもたらされた生活環境の変化であり、帆の長さや角度を変えバランスを保つのは、その中にある技術や思想を選択して平穏な生活をしていくことだと思います。
  よく言われる「黒か白か、グレー(灰色)か?」すべてグレーで良いと思います。真っ黒に近いグレーもあれば、真っ白に近いグレーもあるわけですから・・・自分の意志に反して黒に近づくこともあれば、白に近づくこともある。このグレーな世界で右に寄ったり左に寄ったりしながら波のように漂う。目に見えない大きな力がそうさせ、愚かな私たちには抗えない「あわい」の世界に生かされている。はっきりしない、うすい、きえそうな、ぼーっとした、あいまいな、うつろな「あわい」な世界を漂っていくという感じですか?「あわい」何か神秘的な響きのある素敵な言葉で、いいですね。また機会があれば取り上げてみたいテーマです。