Chuangzi and Jeet Kune Do.

「荘子と截拳道」  

  自ら一派を興した創始者は、何らかの真実の一部に触れたかもしれない。しかし、時が過ぎとりわけその創始者がこの世を去ると、この不完全な真実が法となり、さらに悪い場合は「異端」集団に対する偏見に満ちた信念と化す。この知識を次世代に伝えていくために、様々な御信託を整理し、分類し、論理的な順序に従って提供する必要が出てくる。かくして最初は創始者の個人的内観の類いだったと思われるものが、今や固定化された知識、保存処理を施された大衆向けの万能薬となる。その過程で門人たちは、その知識を神聖不可侵なものと見なすだけでなく、創始者の知恵を埋葬する墓場にしてしまう。組織化と保存の性質により、その方法論は非常に手の込んだものとなってそちらに大変な注意を払わねばならなくなり、次第に本来の目的が忘れられてゆく。
  門人はやがてこの「組織化されたもの」が現実の全てだと受け取るようになる。もちろん「もう一つの真理」に直接対応するものとしてより多くの「異端的な」研究方法が発生することだろう。そう時をおかずにこれらの研究方法も大きな組織を生み出し、各々が「真理」の所有を主張してあらゆる他者を排除するようになるのである。
 「ブルース・リーが語るストライキング・ソーツ」 p.195 (福昌堂刊)

  ブルース・リー自身が、自分の亡き後を予見したのではないかと思われる文章でハッとさせられました。生前、彼が研究・練習した多くの流派がそうであったように、芸道や宗教どの世界においても同じようなことが起こり、ジークンドーも同じ運命を辿るのだろうと見透していたようです。
  「何らかの真実の一部にに触れたかもしれない。」これは、彼の正直な思いだったでしょう。真実を獲得したとも悟ったとも断言していない。真実のほんの一部に触れたかもしれないが、気のせいだったかもしれない。まったくの勘違いだったかもしれない。そんなあやふやな表現ですが、とても謙虚で誠実な言い回しだと感心します。彼は、32歳で自分があれほど早くこの世を去るとは思いもよらなかったはずです
たかが30そこそこの青年が真実を会得出来るはずがない。自分の未熟さを充分理解していたはずです。これから長い年月をかけてしっかりと見極めようと努力し続けたことでしょう。60歳・70歳になればもう少し確固たる何かに触れ、もっと真実に近づけるのではないか、はっきりしないもやもやしたものに光が当たりそれらしきものが見えてくるという思いで修行を継続して行ったことでしょう。
  ただの個人的な内観の部類とは、自分自身が見て感じて理解した武術・格闘技の世界、生き方、思想でありブルース・リーという人間、一個人の世界です。自分が思索した世界を出来るだけ文章で書き綴り、生前とても多くの文章を残しました。それはすべて自分なりの真実に近づくためのただの道しるべでありガイドブックのような存在で、その程度のもので大それた聖書や仏典に相当するものではなかったと思います。それを神聖な規律・形式・原則に塗り替えて崇めたてまつるのは、違うような気がします。たぶん、彼は武術を志す者へ修行とはこうあるべきではないか?古来の伝統的な形式的な方法に対して、向上心への啓発や気づきを促すためにジークンドーという言葉をつくりジークンドーに対する自分の思いを書き残していったのではないでしょうか?
  固定化された知識、保存処理を施された大衆向けの万能薬で門人を眠らせてしまってはいけない、覚醒させ続けなくてはいけないはずです。先生の作ったマニュアル・指導手引書にある動作を何度も反復する。ただひたすら催眠術を掛けられたように、何の注意も払わず思考停止したまま、みな固定化された同じ動作を繰り返すことは、ジークンドーの思想に従ったやり方でしょうか?

  固定化され、型にはまったパターンには適応性も柔軟性もない。固定化されたパターンの中に真理はないのだ。

  古典的な手法や伝統は、心を奴隷にしてしまう。あなたはもはや個人ではなく、伝統の産物の一つだ。あなたの心は無数の昨日の帰結である。

  最も重要なのは個人であって、システムではない。人間が手法を創造したのであって、手法が人間を創造したのではないことを忘れてはならない。そしてまた、誰かが前から考えていたようなパターンに自分を無理に合わせようとしてはならない。それはその人には申し分なく合っていたのだろうが必ずしもあなたに合うとはかぎらない。
 「ブルース・リーが語るストライキング・ソーツ」 p.197(福昌堂刊)
     
  いいかい、やり方は色々ある。でも、一つのやり方に限定されてはいけない。僕たちは「自分自身のやり方」でアプローチしなければならないんだ。僕たちは常に学びの途上にいる。ところが「スタイル(あるいはシステム)」というのはすでに結論付けられ、確立され固形化されたものだ。本当はそんなことをしてはいけないんだ、人は年を取るにつれて毎日何かを学んでいるんだからね。
  「ブルース・リーが語るストライキング・ソーツ」 p.198 (福昌堂刊)

  私はもうシステムや組織に興味はない。会の組織化が進むと、人を系統化された概念のパターンに閉じ込めてしまう傾向があって、その指導者たちは決まりきった手順に縛られていることがしばしばだ。無論、組織の成員たちに時代遅れの前成説を受け入れるよう強制して、彼らの自然な成長を妨げてしまうようだと、事態はさらに深刻だ。
「ブルース・リーが語るストライキング・ソーツ」 p.199 (福昌堂刊)

  真理を掲げた組織は、永久保存版の教義を盾にして他を排除して異端とみなす、異端とされた組織はまたもう一つの真理を掲げ他を排除する。真理とやらはいくつあるのでしょうか?私は、異端的な立場にいますが、ただそこにいるだけです。気にしていませんし異端という言葉にまったく違和感がありません。むしろ気に入っています。排除する立場よりも排除された立場にいた方が気が楽ですし・・・いい加減で、でたらめをやっても許される訳ですから、今現在の自分自身がそうであるように。もし大きな感違いをして真理や正義を掲げようものなら、その責任と重圧に耐えられず、すぐにつぶれてしまうでしょう。それほど強健な肉体と精神を持ち合わせていませんから。
  そういえばブルース・リーが傾倒していた老荘思想の荘子の中にも、いくつか大事な教訓となる言葉があったような気がしますので、いくつかここに載せておきます。自分の胸に手に当て反省しながら読み返してみようと思います。
   
  とてもやさしく明解に書かれている加島祥造「荘子ヒア・ナウ」PARCO出版から引用させてもらいます。



ーすべてのもとは、ひとつー

  すべてのことは「これ」だとも言えるし、「あれ」だとも言える。ひとりの人が「これ」と見ても、他の人は「あれ」と見る。
  人というものは、自分が知っているところから物を判断する、そして自分の知ったところから「あれだ」とか、「いや、これだ」と言う。
  だがね、本当は「あれ」でもあるし「これ」でもあるんだよ。そこから分かれて出てきただけなんだ。命は死から出てきたし、やがて死んで行くものだ。だから同じことなんだ。
  何かを指して、これは悪いといっても、それはね、こっちが正しいとするからそっちを悪いとするだけなんだ。だから、本当に賢明な人はこういう区別を超えた、遠くて高い所から、ものごとを見ようとする。彼はね、「これ」と言ったときには、もうひとつの「あれ」のほうも見ている、そして、「あれ」が、「これ」であるってことを知っている。
  すなわち、ひとつのものには、正しいと間違いの両方が含まれているんだよ。このように「これ」とか「あれ」とかいう区別を超えた場所にタオで言う「静かな一点」があるんだ。この「静かな一点」は、すべてのものの中心軸 ータオの核ー なんだよ。この中心軸が君の中にぴたっと据わると、「正しい」も「間違い」もなめらかに回転する。正しいと間違いとを超えた向こうの、「あの光」を見ている。それが、本当の知恵というものなんだ。
  右とか左とか、善とか悪とか、そういう区別があったとしても、そのふたつは、やがて一緒になる。そして溶け合う。すべてのものは、いつか、ひとつになる。本当に見える人は、「すべてはひとつ」という原理をよく見つめた人なんだよ。その人には区別なんかしても役に立たない。いつも、区別を超えた場所にいるんだ。
  そして、区別を超えていて、いつも変わらないということは、生きる上でとても大切なんだ。それは、本当の自分の性質にかえる、ということだよ。
  自分の本当の性質の中にいるとき、人は幸福なんだ。幸福に至ったとき、まあ、完全に生きていると言える。これが、タオさ。
                         p.26~p.29

 ーむだな議論ー
        
  いいかね、もし君と僕が議論してだね、君が勝って僕が負けたとするよ、するとそれは、君が正しくて、僕が間違っているということになるね。その反対に、僕が勝って君が負けたら、僕が正しくて君が間違っているということになる。本当にそうだろうか。
  実際は、僕らは、お互いに一部分だけ正しくて、一部分が間違っているだけじゃないかね。どっちかが全面的に正しくて、どっちかが全面的に間違っているなんていうことがあるだろうか。そうすると、じゃあ、誰かに審判を頼むことになるだろう。
  誰か君の意見に同意する人に頼むかね。君に同意している人は、僕のことを悪く言うだけだろう。僕の意見に同意している人に頼めば、その人は、君のことを間違っているというだけさ。
  じゃあ、君と僕の両方に同意している人を探すということになるのかね?もしその人が、僕らふたりの言うことを、両方とも正しいと思うんなら、裁くことなんか、できないだろう。
  もし、君にも僕にも「大きな真理」を見られないのなら、他の人には、ますます見られないんじゃないかなね。結局だね、もっと大きな宇宙の働きというものを見て、いいの悪いのと議論なんかしなければ、ゆったりとした人生を送れるんだよ。
                          p.34~p.36

 ー大きな知恵ー

  大きな知恵というのは、ゆったりとすべてを包みこんでゆく。小さな知恵というのは、片一方にかたよって、こせこせしている。大きな知恵からくる言葉は、簡明で静かだが、小さい知恵からの言葉というのは、かん高くてうるさいのさ。
  たとえば眠っているときには、われわれは大きな魂に触れている。ところが、目を覚ますと、五官が開き、その五官を働かせて活動をし始める。頭も、気もあれこれ散り始める。迷ったり、くじけた気持ちになったり、いじけた気持ちになったりする。
  いろいろ小さな心配ごとが生じたり、大きな恐怖にとりつかれたりする。心というやつは、まるで矢のように、あちこちへ飛んでいくものだよ。そして当たったものを勝手に判断するー自分の考えが正しい、とね。何にぶつかっても、自分が正しいと思う。
  ところが、そんな君の意見なんて、長続きするものじゃないさ。秋が来たり、冬が来たりするように、いつしか変わっていくものなんだ。
  また、詰まった管みたいに、いろいろなものが行き止まりとなる。しまいには、若さを失って、死に近づいていくわけだ。
  喜びや怒り、悲しみや幸福、希望や恐怖、気の弱さや強さにとらわれ、尻ごみしたり、向こう見ずに進んでいったりする。
  夢中になったり、傲慢になったりする。みんな葦の管に吹く風の音みたいに鳴り、また、地面に生えるキノコの群れみたいに、たえず出てきて消えてゆく。
  すべてのものが、動いては止み、動いては止みする。だから、気にするんじゃないよ。小さなことは、放っておけばいいのさ。
  もちろん、こういうものがなければ、自分というものは存在できない。また自分というものが、いなかったら、相手もいないのと同じことだ。これは、なかなかすばらしい真理なんだが、なぜそうなっているのか、分からないんだ。本当のところ、この自分と相手との間には、両方に働く何か大きなものがあるんだが、それは誰にも分からないでいる。
  私は、その大きな働きに運ばれていると信じるがね、ただ、それは目に見えるものじゃないんだ。感じてはいるけれど、形に示せるものじゃないんだ。
                        p.162~p.165

 -自分を忘れるー
        
 顔回(がんかい)が孔子にこう言ったそうだー
 「私、ようやく少し進歩しました」
 「どういうふうにだね?」
 「もう、人間性とか正義なんかにとらわれなくなりました」
 「ああ、それはけっこうなことだ」と、孔子。
 「だがな、それだけじゃあ、まだ完全じゃないね」

 また別の日、顔回が孔子に言った。
 「また少し進歩しました」
 「どんなふうにだね?」
 「私、世の中の礼儀やしきたりを、もう捨てました」
 「それはけっこうだ。だがな、まだ完全じゃないね」


 
また別の日、顔回が孔子に言った。
 「また少し進歩しました」
 「どんなふうにだね?」
 「部屋に坐っているとき、坐っている自分を 忘れるようになりました」

 
「それはどういう意味だね?」と、孔子がちょっと顔色を変えながら聞いたそうだ。
 「私は自分の体から自分を自由にしたんです」と顔回。
 「つまりですね、考える力を捨てたんです。体のことと心のこと、この両方を捨てたんです。すると自分が無限の何かと一緒になったんです。坐っていて自分を忘れたと言ったのは、そういう意味なんです。」
 
  それを聞いて孔子はため息をついてこう言っ たそうだ。
 「もしおまえがそこまでタオと一体化したのなら、もう、好き嫌いにとらわれないだろう。もしおまえがそこまで変化自在となったのなら、もう、ことにこだわることもないだろう。どうやらおまえは、本物の賢者になったようだね。私はお前の弟子になろう。」 
   
                     p.176~p.178