I feel like a tsurezuregusa.

「徒然草に思う」  

  最近、外出するたびに感じる事があります。人の歩くスピードが速いのです。どうしてみんなそんなに急いでいるのだろう?そんなに急いがなくても良いのに、慌ててもろくな事ないよ!世の中すべての物事のスピードが速くなっているように感じるのは、ノロマナ自分だけだろうか?あるいは、加齢のせいで体力が落ち歩く速度が落ちたのか?子供の頃から「動作が遅い!」と先生から叱咤されていた記憶は、未だに頭の隅に残っている。先天的に受け継いだ性格なのだから、どうしようもないだろう。
  速く!強く!多く!この3拍子を極限まで高めることが理想とされる時代なのかもしれません。何事もなるべく早く効率良く進めばそれだけ多くの利益が生まれる。出来る限り短時間で、最高の儲けを生み出さねば負けてしまう。効率が利益第一主義の柱になっているということですね。
  何度も吐露してきましたが、生まれついての性格なのか私は、急かされるのが苦手で、ぐずでのろまでのんびりや何事も自分のペースでゆっくり生きています。これからもこのスローペースは続いて行くだろうしこれが他人に迷惑をかけ続ける要因になっていくのも自覚しています。今の時代のニーズからは、完全に逸脱した不適合な人間だから余計にそう感じます。こんな落後者にも生きていく方法がありそれに出会えたからこそこうして息をしていられる。こんな愚鈍な人も生かされている。有り難いなとつくづく感じています。
  そう思う反面、前にいる人、若いのにやにゆっくり歩いているなと思うと、スマホを一生懸命さすっている。要は、自分のスピードを基準に速い、遅いと決めつけているだけかもしれない。すべては自分を中心に置き、自分の物差しでしか計れない、自分よがりな判断しか出来ない訳ですね!
  先を急いでいる人は、速足で歩き、急いでいない人は、ゆっくり歩き、どちらでもない人は、普通に歩くだけ・・・文句を言っても仕方がない。

  ふてくされながら「徒然草」の中にある文章を思い出し読み直してみました。第74段、蟻のごとくに、現代語訳(角川書店編)をあげておきます。

  『人間が、この都に集まって蟻のように、東西南北にあくせく走り回っている。その中には、地位の高い人や低い人、年老いた人や若い人が混じっている。それぞれ、働きに行く所があり帰る家がある。帰れば夜寝て、朝起きてまた仕事に出る。このようにあくせくと働いて、いったい何が目的なのか。要するにおのれの生命に執着し、利益を追い求めて、とどまることがないのだ。
   このように利己と保身に明け暮れて、何を期待しようというのか。何も期待できやしない。待ち受けているのは、ただ老いと死の二つだけである。これらは、一瞬もとまらぬ速さでやってくる。それを待つ間、人生に何の楽しみがあろうか。何もありはしない。
   生きることの意味を知ろうとしない者は、老いも死も恐れない。名声や利益に心奪われ、我が人生の終着が間近に迫っていることを、知ろうとしないからである。逆に生きることの意味がわからない者は、老いと死が迫り来ることを、悲しみ恐れる。それは、この世が永久不変であると思い込んで、万物が流転変化するという無常の原理をわきまえないからである。』

  「みんな生きていくのが精一杯、自分の命や健康にしがみつき、金儲けに精を出し出来ることなら名声も手に入れたい。そんなにあくせく働いてどうするの?もっと大切な生き方があるのでは?少しは、立ち止まって、すべてのものは流転変化しいづれ消滅する無常の真理に目を向けてみてはどうですか!」吉田兼好は、現代の私たちに忠告をしているように聞こえます。老いや死から目をそらさずに受け入れて、どうしたらこの不安を解決出来るのか?死をとおして生を明らかにせよ。後ろ向きだととらえていたことが実は、前向きであった。ということでしょうか?
    
  名声と利益に心を奪われ、すでにそれを手に入れた人たちも存在します。有名人・資産家は、今もそれを失わずに、もっと多くの名声と金銭を手に入れようと血眼になって生きている事でしょう。この種の人たちは、謙虚さに欠け自分よがりで自己顕示欲が強い傾向が顕著に表れています。自己顕示欲の強い人は、とにかく饒舌で自慢しなくてはいられない。
  「俺は、金持ちだ!」
  「俺は、あれもこれも持っている!」
  「俺は、偉い!」
  「俺は、強い!」
  「俺は、頭が良い!」
  「俺は、才能がある!」
  「俺は、血筋が良い!」
 とかくこういう人は、世間では嫌われ者です。徒然草の第79段にもこう書かれています。

  『どんな場合でも、よく知らないふりをするにかぎる。立派な人間は、知っていても知ったかぶりをしないものだ。軽薄な人間にかぎって、何でも知らないことはないといった返事をする。だから、聞いている相手が圧倒されることもあるが、本人自身が自分からすごいと思い込んでいるさまは、どうにも救いがたい。よく知っている方面については、口数少なく、聞かれないかぎりは黙っているのが一番である。』

   しゃべりが上手で饒舌な人は、政治家・評論家・サギ師・アナウンサー・落語家にむいているそうです。今は、無口で話が面白くないと逆に暗いと言われてしまいます。これは、性格にもよるし環境によって変わってくるし仕方のない部分もありますね?「沈黙は金なり」という言葉もあるのに死語になりつつあるのかもしれません。
   あまりしゃべりすぎない、あまり優越感にひたらない、一方的にまくし立てず自己主張を控える、相手の話もちゃんと聞く。そして今とても大事なことは、「その場の空気を読む。雰囲気を壊さずに相手の気に障るようなことはなるべく言わない。」だそうです。なるべく嫌われないよう敵をつくらず仲間を増やしていくことが重要なようです。自分の意思を押さえこみその場に合わせる。これもまたむつかしい話術が必要になってきました。

  『人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝ることのあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言わねども、内心にそこばくのとがあり。慎みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にも言ひ消たれ、禍をも招くは、ただこの慢心なり。一道にも誠に長じぬる人は、みづから明らかにその非を知る故に、志常に満たずして終に物に伐(ほこ)る事なし。』第167段

   この段では、自己主張や自己顕示ばかりではなくて「善をほこる」「争う」「他に勝ること」を
意識することが責められる原因になる。名誉や地位や優秀な技芸を持つことがうぬぼれのもとになると言う。特に若いうちに才能を発揮して世から認められる人もいます。周りからその才芸に喝采をあびて有頂天にならない人の方が珍しいくらいです。必ず自分の才能をひけらかし慢心し悦に入るに違いありません。そこで「持つこと」「所有すること」が否定されています。
   どんなに才能があり一芸に秀でていたとしても自分では誇らず、威張らず、謙虚さと節度をもちあわせなくてはならない。ここでは人間としての品位と教養の問題として語られている。この自己顕示欲は、誰もが持ち合わせている欲のひとつで、どんな分野においても天才・秀才と言われ、あがめられれば自分は特別な人間だと勘違いをして横柄な言動・行動を取るようになってしまうのでしょう。幸い3流で異端の武芸の裏街道を歩んでいる自分にはほど遠い世界であり、負け惜しみに思われるかもしれませんが、1流で無くて才能が無くて良かった。もし一芸に秀でて世に認められようものなら、間違えなく鼻もちならぬ自信満々な嫌な人間に成っていたでしょう。有頂天になり人を小馬鹿にし良い気になっていたことでしょう!
   兼好は、謙虚な心を失った饒舌で自己顕示の強い人間を厳しく非難している。自分の才能・才芸は、自分で世にアピールして外に向かうものではなく、自分の思惑とは別に世が認めてくれる。あくまで受け身であるべきで自分自身で主張し固辞すべきものではない。世間のノイズに邪魔されずに、ただただ好きな道を謙虚に誠実に朴訥と進んでいけば良いのだと諭してくれているようで、少しほっとしました。
   自分の心の内へ向かうまなざし、外へ下界へ向かうのではなく、遮られることなくもっともっと自分の奥深くまで見つめ続けて生きていけたらと思います。常に周囲や他人の視線や反応を気にしながら生きるのは向いていないようですし、世間の波にうまく乗ることもないでしょう。「成功」「大成」などという言葉から別世界で生かされている自分に落胆することもありません。獲得することより所有することより、捉われないこと捨てていくことの方が大切なような気がします。
    
  『老いぬる人は、精神おとろへ、淡くおろそかにして、感じうごく所なし。心おのづからしづかなれば、無益のわざをなさず、身を助けて愁(うれへ)なく、人の煩(わずら)ひなからん事をおもふ。老いて智の若き時にまされる事、若くして、かたちの老いたるにまされるが如し。』(172段)

   年を取って高齢になると、いろんな不自由なことが起こって来ます。すべての能力が衰え鈍って来ます。40歳を越えれば、まず視力の不自由さを感じる人が多くなってくるのではないでしょうか?近くが見えづらくなる老眼の症状が出たり、耳が遠くなり聞きとりづらくなったり、髪の毛が白くなったり抜けたり、顔にしわやたるみが出はじめたり、記憶力や判断力も衰え、動作も緩慢になり、精神的にもやる気がうせてきます。「いいことはひとつもない。」と嘆いきたくなりますよね?昨日、出来たことが今日出来ず、今日、出来たことが明日、出来なくなる訳ですから・・・・
   「この世は、無常だなあ」どの時代に生きた人も感じたに違いありません。肉体的にも精神的にも衰えて落ちこむ時期もあるでしょうが、そればかりではないと兼好は言っています。それなりの人生を送るあいだに、いろいろな苦労もあっただろうし経験も積んできたわけで、経験を通して習得した知恵も沢山あるはずです。どんな逆境に会ってもうろたえることなく落ち着いて対峙し、優れた見識と知恵を充分発揮して乗り越える方法を得ているはずです。常に物事を冷静に落ち着いて的確にとらえる能力は、年を重ねなければ得られないでしょう。ありのまま現状を正確にとらえ、それに正しい対処をほどこし平常を維持することが出来るはずです。老練の智慧とは、心の安静を維持し、自分自身を制御し気持ちの中を波立たせない、静けさを保ち続ける、やはりこだわりに振り回されないことですか?

   どれだけ多く、どれほど深く苦しんだか?どれほど涙を流したか?どれほど失望・落胆したか?失敗は重ねれば重ねるほど、人を強くたくましく鍛えてくれます。涙と汗の量が、人としての魅力を決定するのでしょうね?成功ばかり手に入れた人、すべてが予定通り上手く行っている人は、世間からは羨ましがられるかもしれませんが、こういう人と話をしてもお酒を飲んでも楽しくなさそうです。苦労話を聞いたり失敗談を聞いた方が、為にもなるし間違いなく面白そうで楽しいはずです。そんな人達と一緒に寄り添い合って生きていければと思います。
   「死ぬまでヘマをし続け、他人に迷惑をかけ続けなくては生きられない、そんな人生だと覚悟しながらも、少しづつでも老練な智慧を磨き続けられたら・・・」と切に願っています。
                       3/24,  2014