Nothingness and Emptiness.
「空と無」

ブルース・リー 「先生」
老師 「お前の技は今、技量ではなく、精神面の洞察と訓練の問題に差し
   掛かってる。いくつか尋ねるが、これからどんな技を極めたいのだ?」
ブルース・リー 「無の技を」
老師 「よろしい、敵に会ったらどうするのだ?」
ブルース・リー 「敵などはいないということです!」
老師 「なぜだね?」
ブルース・リー 「私というものが存在しないからです。」
老師 「説明してみよ。」
ブルース・リー 「戦闘という概念を人の思考過程からなくし、心を無に
  すれば、無意識にうまく流れていきます。敵が押してくれば引き、敵が
  引けば押します。機が訪れれば相手を倒します。私は打ち込みません。
  (拳を上げ)これが自然に打ち込まれるのです!」
老師 「忘れるな、敵は見せかけの虚像の姿で現れる。野心を背後に隠して
  な。虚像を打て!敵は倒れる。お前の言った無意識は強力な武器となる。
  かつてある男が誓いを破り悪しきことをおこなった。少林寺の掟は何世紀
  に渡り守られてきた。同門の名誉は保たれてきたのだ。掟の13条を言っ
  てみなさい。」
ブルース・リー 「門下生は、己の行為に責任を持ち、その結果を受け入れね
   ばならぬ。」
老師 「恥ずかしい話だが、門下生の中にその知識と技を己の野望に用いたも
   のがいた。我らの聖なるものを汚した。名はハンだ。我らの信念に背き
   少林寺の名を辱めた。今こそ、お前が失われた名誉を取り戻せ!」
ブルース・リー 「わかりました。」

  もうお察しの通り、映画「燃えよドラゴン」オープニングのワン・シーンですね。1973年の公開当初には、東洋的で哲学的な言い回しが西洋では、理解されないだろうとカットされたシーンです。97年頃ですかディレクターズ・カット盤が発売され観ることが出来るようになりました。

   この老師との対話の中に秘められた東洋の哲学とは、どんな意味があったのか?師祖ブルース・リーは、世界中の人々に知って欲しかった東洋の思想とは?彼が、意図した本当の真意とかけ離れてしまうかもしれませんが、自分勝手な想像で読み説いてみようと思います。
 
   老師は、会話の冒頭で「あなたは、すでに肉体的にも精神的にも充分な鍛錬を積み、かなりの修行レベルにまで達している。これ以上、何を求めて修行の道を歩んでいくつもりなのだ?」と聞いています。それに対して彼は「無の技を」と答えています。無の技が、最高の技、最後の極み、究極の境地だと考えても良いでしょう。
   武道・武術の世界において「無の技」とは、どんな意味なのか?単なる技術としてどんな相手も打ち負かすことが出来る秘技なのか?或いは、最高の技を繰り出すための心がまえ、平常心、精神的な境地のことを言っているのか?いや、この両方を兼ね備えた肉体・精神一如の状態を指しているのか?
   老師は、すでに修行段階が身心一如のかなり高いレベルに達していることを認めています。その上にあるステージが、「無の技」になるわけです。「無の技」の解釈は後述することにします。
   次に老師は、敵に対したらどう対処するのだと聞いています。その答えは、「敵などいません。己も存在しません。」でした。どうして自分がいなくて敵もいないのか?これから敵を倒しに行く物語が始まろうとしているのに?自分も相手も存在しない??? 訳がわかりません。デカルトの有名な言葉に「我思う、ゆえに我あり」に反するではないか?まず自分の存在が前提にあり自分を取り巻く世界があると普通考えています。
   これは、禅の教えにある言葉から引用されたと思われます。ブルース・リーは、禅でいう「無」「空」「無我」の思想をこの短い会話の中へ挿入したかったようです。

   私は、無とか空とか聞くと般若心経にある「色即是空・空即是色」や老子の「無為自然」や道元の「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるといふは、自己の身心および他己も身心をして脱落せしむるなり。」という言葉が思い浮かんできます。
   この仏教と老子・荘子(老荘思想)には、関係があるようです。紀元前後、仏教はインドからシルクロードを通って中国に伝来したとされています。この時期、膨大な量の経典が持ち込まれ翻訳されました。インドでは異なった時期に編纂されたものが同時に伝えられたため、伝来当初から、中国人の仏教理解には混乱が生じました。 さらに、儒教をはじめとした既存の思想の存在や中華思想などの理由から、外来宗教である仏教の定着は容易ではなく、そこで、仏教者たちは、儒教や道教の思想を借用して仏教を翻訳・解釈することにより、その存在の保持と拡大をはかりました。 この風潮は、後の老荘思想によって仏教を理解する「格義(かくぎ)仏教」を生み出すこととなります。
   
   この分野の専門家・森三樹三郎氏は、著書「老子・荘子」の中で次のように述べています。
    
  『 中国に伝えられた初期の仏教経典には、小乗系にものもあり、大乗系のものもあったが、けっきょく中国の知識人に受容されたのは大乗の経典であった。その大乗経典のうちでも、「般若経」の系統のものが中心となった。般若とは知恵の意であり、一切皆空の理を明らかにする知恵のことである。すべてを空と見ることにより、あらゆるものの実在を否定し、その結果として特定の物への執着を消滅させ、一切を平等無差別に見る悟りの境地に達する。
   もし般若皆空の思想をこのように理解してよいとすれば、それがいかに老荘の思想に近接しているかに驚くほかはない。老子は空のかわりに無というが、その無はあらゆる有の根本にあるものである。荘子に至っては、老子よりもさらに般若の立場に近い。荘子は無というよりは、無極、無限を根本とする。この無限者の立場に立てば、あらゆる物はその対立と差別を失い、平等無差別となって無限者のうちに包容されてしまう。いわゆる万物斉同の境地がこれである。この荘子の無の思想ー実は無限の思想は、般若の空にたいして最短距離にあるといえよう。
   このように仏教と老荘思想には大きな共通点があるので、老荘思想になじんだ中国人が、これを通じて仏教を理解しようとしたのは当然であろう。ただ、このような老荘を通じて理解した仏教には、どうしても老荘的色彩がつきまとうことになる。このように老荘色をおびた仏教は、ふつうに格義仏教とよばれている。』

  「敵はいません。己も存在しません。」ということは、相手も自分も人間という物だと考えるとすべての物は、存在しない。私たちが有ると思っているものは、本当は、そのようには存在せず、現実には存在しないというかたちで存在している。自分が勝手に見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、考えたりしてイメージした虚像を本来の物の姿だととらえている。自分の執着心を通した拘りのニセの像を本物だと誤って捉えてしまっているということでしょうか?
   時間は、流れ続けて昨日の自分と今日の自分は違い、まして1年前の自分と今の自分は、細胞は全部入れ替わった自分です。石も鉄も何百年も経てば消えて無くなり、永遠だと捉えていた姿がそうではなかった。1秒、1秒老化して死に向かっている私たちの体の存在は、変化しそのスピードが止まる事はありません。
   いつまでも生きていられると思っていた自分がそうではなかった。般若(智慧)の空のとらえかたは、確固たる永遠不滅なものは存在しない。あなたもわたしも永久には生きられない。時間に流され続けて変化し続けている。「自己をならふというふは、自己をわするるなり。」勝手な思いこみをしていた自己を忘れなくてはいけない。「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。」すべての法・真理に照らされて愚かな自分があらわになる。「万法に証せらるといふは、自己の身心および他己も身心をして脱落せしむるなり。」法に照らされると自分の体も心も他の人の体も心も(山川草木も)崩れ去って無に還る。自分よがりな作為を捨て真理の流れにすべてをゆだねる。
   自分が憎しみをいだく敵もいなければ、憎い敵をやっつけてやろうという怒りの気持ちにとらわれた自分もいないのだということでしょう。

   「戦闘という概念を人の思考過程からなくし、心を無にすれば、無意識にうまく流れていきます。敵が押してくれば引き、敵が引けば押します。機が訪れれば相手を倒します。私は打ち込みません。(拳を上げ)これが自然に打ち込まれるのです!」

   緊張せずに恐怖心を持たず相対する。どうやって打とう、どうやって防ごうと心の中の葛藤を冷静にコントロールし相手の動きに集中する。相手が出てくれば引く、相手が引けば出る。陰と陽の調和をうながしながら、チャンスが来たら無意識に自然に攻撃を出します。
   この攻撃の機が訪れた時、彼はカウンター攻撃を出したのでしょう。武道経験のある方は、うなずけると思いますが、技がかかる機は、カウンターを打てる時は、一瞬です。今だと感じた瞬間に打っていないと間に合いません。あたり前ですが、この一瞬の攻防が決め手になります。自然にカウンターが出せるようになれば、最小限のエネルギーで最大限の効果を出せる最高の技術ですね。

 「敵は見せかけの虚像の姿で現れる。野心を背後に隠してな、虚像を打て!
  敵は倒れる。お前の言った無意識は強力な武器となる。」

   『大品般若経』では「空」を「諸法は幻の如く、焔(陽炎)の如く、水中の月の如く、虚空の如く、響の如く、ガンダルヴァの城の如く、夢の如く、影の如く、鏡中の像の如く、化(変化)の如し」と説明しています。これを十喩の教えというそうです。
   「幻の如く」とは、幻を見ては、それが現実であると思うってしまう。無明がやめば、それを原因とする現象も消えるという教えです。
   「炎の如く」炎は風を起こし塵を動かす。男女間の炎のような愛欲感情も邪念の塵であるという教えです。
   「水中の月の如く」月は、もともと夜空にあって水の中にあるのではない。しかし愚人は水中の月を見て、水の中に月があると考える。凡夫は我見のために、大空に輝く法性の月を見る事が出来ない。
   「虚空の如く」元来虚空なものは、その名だけがあって実のないものである。虚空の本来の姿は清浄であるのに無知な人は、その陰を見て不浄と思い込むという教えです。
   「響の如く」やまびこが響き、それを人の声だと思わせ人の耳をあざむく。これも本来、空なるものだという教え。
   「ガンダルヴァの城の如く」ガンダルヴァの城とは、蜃気楼のこと。蜃気楼が本物だと錯覚して近ずこうとするが幻のごとく消えてしまう。諸法の空なることを知らずに欲や怒りの後を追い、一時的な快楽を求めるが、より増した苦悩を得るという教え。
   「夢の如く」5種類の夢があるといわれていますが、いづれ夢はさめて現実に戻る。夢も空なるもの。
   「影の如く」ものの影は目で見ることは出来てもつかむことは出来ない。光はあって影は現れ、人の動きに応じて動く。善悪の行いも影のように人について回るという教え。
   「鏡中の像の如く」鏡に映る像は、物と鏡が和合した時に現れる。和合によって現れた姿も空であるにも関わらず、それに愛着を覚えとらわれてしまう。
   「化の如く」心の変化のことで、心は一身を多身として、多身を一心とする。石や壁の中でも自由に通行し、水を渡り、空中を行き、手に日月をとらしめる。あるいは、地を水となし、水を地となし火を風となし風を火となし、石を金となし、金を石となす。心の変化はかくのごとく限りないものであり、諸法もまた心のごとく空であるというおしえです。公方俊良氏の解説を参考にさせていただきました。

    以上、十喩(じゅうゆ)の1番目「幻の如く」と9番目「鏡中の像の如く」は、まさしく「燃えよドラゴン」の中で悪役ハンと死闘をくりひろげた鏡の部屋でのシーンを思い出させます。最後のクライマックスの決闘で悪役ハンが苦境の末、四方八方に鏡が張られた隠し部屋へ逃げ込みました。鏡に映し出されたハンの虚像にだまされ、相手の実像が捉えられずに苦戦しているブルース・リーの脳裏に、老師のこの言葉が浮かんできます。
  「敵は見せかけの虚像の姿で現れる。野心を背後に隠してな、虚像を打て!敵は倒れる。お前の言った無意識は強力な武器となる。」
   鏡と悪役ハンが和合して鏡にいくつものハンの姿が映り、それがすべて空の姿。鏡に映った空の虚像のハンを本当のハンだと思い込み執着してしまった。もうひと息で相手を仕留めることができる、早く決めてやろうという焦りの心、完璧な勝利を得ようとするかたくなな心、自分の執着心をコナゴナに砕くように鏡に映ったハンの虚像つまり鏡を割り続けていきました。ただただ鏡を割り続ける、体が動くままに無意識に鏡と虚像を粉砕する。すると隠れていた相手の本来の姿が浮かびあがり、無意識のうちにサイドキックが蹴りだされ勝利する。
   彼は、「サイドキックとは、敵対した相手にだけ蹴り出されるのではない、自分の心に潜むエゴやとらわれを粉砕するためにも有効なテクニックなんだ!」とも言っていました。 

   最後に「無の技」とは、何を定義しようとしていたのか?最終到達点、理想の境地を指す言葉だとは察しがつきます。彼が、武道の修練の進み具合を、三段階に分けて説明している文章が残っていますので参考にしてみます。
   第1段階、原始的で闘い方について何の知識も技術も経験も持たない白紙の状態です。攻撃の出し方もよけ方も知らずに、本能のまま殴ったり、かわしたりするだけです。肉体的に鍛えた訳でもなく、攻防に対して科学的な知識もなく、本能のまま身体を動かし闘います。技術的にはまったく無知な状態です。しかし、その動作は流動的で何かの型にはまっている訳ではありません。その本能的な反応は、粗雑に見え適切な動作でもありませんが、しかし自然であり自分を素直に表現しているとも言えます。
   第2段階は、闘いの技術を習得していきます。立ち方、動き方、殴り方、蹴り方、投げ方、かわし方、策略等あらゆる戦闘知識を詰め込んでいく段階です。技の習得・錬磨に時間と労力を費やし合理的で科学的な動作を覚え、無駄のない効率的な動きが身についてきます。技術習得の段階です。次の段階へ進むには必ず必要な大切な時期ですが、ここで注意しなくてはいけない点をブルース・リーは、指摘しています。
   指導者の教えるとおり、動作のマネをする。まったく疑問をもたずに先生の言うまま鵜のみにして、ひたすら形を繰り返す。そこには創造力も洞察力も働かず、ただ型にはめ込み制限された作業をしているわけです。ひとつひとつの動作を盲目的に繰り返すだけでは、その技を出すタイミングや状況の判断もつかなくなり応用も変化も効きません。技は知っていても現実の闘いでは、まったく役に立たない。形にこだわり過ぎて用法、使い方が分からないのです。ここには、自己の自由や流動性、自然な反応はありません。古典的な流派に身を置く人たちは、この段階で満足してしまい伝統を受け継いだとプライドのかたまりと化してしまうケースが見受けられます。それはそれで構わないと個人的には思いますが・・・
   この第2段階で、少しだけ創造力・応用力を忘れずに心がけていると次の最終段階へスムーズに移行できるということでしょう。自分の独自の思索を用いて、時には先生から習得した動作を改変する勇気も必要であり、それが現実に即し無駄なく流れ結果が出れば、それで良しとする。
   第3段階、「無」「自然」の境地です。厳しい反復練習・稽古に耐え多くの技を身につけた次の最後の段階ですね。自分の意志や判断を抜きにして無意識に即座に、その一瞬に適した技が現れる。自ら努めて何かしようとするのではないし、脳で分析され出された指令に従うでもない、即自的な自然な動きです。
   これまで練習して身につけた基本の型・動作などが最小限になり、完全に忘れ去られたわけではなく「無」の境地に支配される。そうすると形や目的など何ものにもとらわれない「無意識」の状態から手足、体が動き、その結果にありのままの自分自身が表現される。

   「無」「無心」「無為」については、生前ブルース・リーは、いくつもの記述を残しているので紹介します。

  『平安や平穏は大切なことであるが、それは「無心」の根源を構成する心の何にもとらわれない部分である。グンフーの使い手は、何もとらえることはないがすべてを拒まず、映し出しはするが留めておかない、といったように心を鏡の状態にしている。アラン・ワッツが述べているように「無心」とは、人の心を邪魔する邪念やエゴのない、心が自由で平和に機能する全体の姿を指す。ワッツが言っているのは、それぞれの内にある邪念やエゴによって心を乱されないよう心をあるがままの状態にすることである。あるがままの思考でいる限り、追い払う努力はまったく要らない。努力が要らないということは、邪念の完全な消失ということになる。』

  『意にそわないことも含めて次々と起こることすべてを受け入れることで、何も努力は要らない。「無心」とは、感情や感覚のない状態ではなく、こだわったり、拒絶したりすることのない状態である。それは、留まることを知らず絶え間なく流れている川のように、感情的な作用に対して心を動かされないことである。』

  『究極的には、目的を持たぬ状態にならねばならない。目的を持たないということは、空白を目的とすることであり、単に何もないということではない。思考過程に執着することが目的ではない。その本質は、自然形のないもので、目的を入れられるものではない。そこで何かに執着すると、精神エネルギーはバランスを失い自然な活動は束縛され、流れることができなくなる。しかし、流動的な状態、心が空の状態、もしくは単に平常心と言われる目的を持たない状態の場合、精神はどこにも留まらない。一方向に傾くこともなく、物事を超越し環境の変化に空の心で臨み、まったく痕跡を残さない。』

   『「無」は「~と違う」とか「~でない」という意味であり、「為」は、「活動」「行動」「努力」「強いる」「働く」といった意味がある。しかし、実際に何もしないことを意味しているのではなく、心をひとつにしてあるがままの心の動きに委ねるということである。最も大切なのは、何があっても努めて行わないことである。グンフーでいう「無為」は、制御するものが心であり精神、もしくは心の活動を意味している。スパーリングを通してグンフーの使い手は、何の抵抗もなく心を解放して相手に反応し、しなやかな動きがとれる。忘我の境地に達し相手の動きに合わせることを学ぶ。その動きは自己主張ではなく、心が自然で何物にもとらわれていない状態になっている。思考をすると動きが乱れ即座に倒されてしまう。したがって、すべての動きは出そうと意図しないでだされなければならない。』

  『グンフーにおける集中には、注意力を単一の物体に限定するという通常の意味はなく、何にせよ今ここで起こっていることのもの静かな認識を意味するのだ。そうした集中の例証となるのがフットボールの試合を観戦中の観客である。ボールを持つ選手に注意を集中するかわりに観客たちはフットボール場全体を認識している。同様のやり方で、グンフー家の心も相手のある特定の部位にとらわれることなく、集中するのである。これは数多くの相手と対する時に、とりわけあてはまる。例えばかりにある男が10人の男から連続的に攻撃を受けたとしよう。ひとりが片づいたら、心にストップする暇をあたえず次に移っていかなければならない。ひとつのブローを次のブローがフォローするスピードに関わりなく、そのふたつの間に何かが入る時間はいっさいない。かくして10人がことごとく連続して成功裏に片づけられる。これが可能になるのは、心が何かにとらわれたり止められたりすることなく、ひとつの目的から次の目的へと移っていけたときだけだ。心がこうしたやり方で動いていけないと、ひとりの相手と次の相手の間にどこかで闘いに敗れるのは必定である。
   彼の心は、あらゆる処に存在する。なぜならそれは、いかなる特定の象にとらわれていないからだ。そしてこの対象、あるいはあの対象と関係しているときも執着がないため、その状態を保っていられる。思考の流れは池を満たす水にも似て、いつでもまた流れを変えられる。それは自由であるが故に無尽蔵のパワーを発揮でき、空っぽであるが故にすべてに対して開かれている。
   先述したようにグンフー家は、自分自身と相手との調和を目指す。相手との調和は、軋轢と反発を招く力を通じてではなく、相手の力に従うことによって可能になることも、すでに述べた通りである。換言すれば、グンフー家は相手の自発的な前進をうながし、あえて自分の動作で介入しようとはしない。すべての主観的な感情と個性を放棄することで自分自身を失い、相手とひとつになる。彼の心の内側で対立はお互いを排除するのではなく、お互いに協力するものとなる。彼の個人的なエゴと作為が自分のものでない力に従ったとき、彼は最高の行為すなわち無為を達成するのである。』

   以上、似かよった表現もありましたが、何となく彼が求めていた境地が分かってきます。これを私たちが、どう受け取るか?ひとりひとり違った感じ方をする、違った理解をする、押しつけられるのではなく自分なりの受け取りをして下さい。

   友人でもあり弟子でもあったジョージ・リーに宛てた手紙で、ブルース・リーは修練の三段階を象徴する三つのサインを作ってもらいたいと頼んだ。そして、それを道場に掲げていました。最後にここで紹介しておきます。
       
   
    1、部分性 ー 極端な方向へ向かうこと
    2、流動性 ー 一つの全体の中にある二つの半分
    3、空 ー 形のない形

                           3/1,2013