Spring Landscape
「春の風景」
     春の風景に良いも悪いもありません。
     いくらかの枝は長く伸び、
     いくらかの枝は短く、
     花を咲かせていれば、   
     つぼみのままもある。
   
   禅の教えを説くためにある言葉だそうです。師祖は、この言葉が書かれたボードをアメリカの道場に飾っていました。普通、我々が望む風景とは、なるべく大きな桜の木に、なるべく長い枝に、なるべく色鮮やかな花をなるべくたくさんの花をつけた木を好みます。すべてのことがらを二つに分け、比較し、それに優劣をつけ、優を好み劣を嫌います。
   
  「荘子」の中にも良く似たたとえがあります。
     
  自然から受けた性であるならば、たとえそれが長いものであっても、長すぎると思う必要もないしたとえ短いものであっても、足らないと思う必要はない。小がもの足は短いが、これを無理に長くしようと引っぱれば泣き叫ぶであろう。鶴の足は長いが、これを切ってやろうとすればやはり悲鳴をあげるだろう。だから長い性をもつものは無理に切る必要はなく、短い性のものは無理に長くする必要はない。

  自然に与えられた姿に安心し満足し、これを越えた他者にまどわされることなく、ありのままを受け入れていくことが大切なのでしょう。自然とは、「それ自身に内在する働きによりそうなっており、他者の介入をいっさい受けないこと」です。つまり「知足安分」―足りていることを知れば、安心することができるー が自然であることは明らかでしょう。

  ありのままの姿をありのまま見る、ありのまま感じ、ありのままを引き受ける。「ありのまま」「そのまま」「ただただ」我のはからい(我執)からはなれ、自然にすべてをゆだねることの難しいこと・・・
  我を頼み、我の力を信じ、我の意志を通す、何事も自分の思いのままに物事を達成していく、つまりとことん自力に頼り努力し続ける生き方は、本当の生き方なのでしょうか?聞こえは勇敢そうで頼りになりそうです。すべて自分の思いどおりになれば、不幸はないはずです。体力も知力も才能も根性も運もすべて兼ね備えた人間なら、すべて思いどおりに成し遂げられるかもしれません。私は、そんな人に人間的な魅力を感じるとることはないと思います。たぶん傲慢で、高飛車で、いつもいばっていて、やさしさのかけらも無い、冷たい人間に違いありません。
   
  自然の風景をみて、知識のある人は、花の名前を言い当て、何科に属するとか、原産はどこかとか、葉の形状やその花の咲く時期や寿命などを語るでしょう。それよりも、ありのままの花を見て「美しいな」「鮮やかな色だな」「甘い匂いだな」「けなげだな」とか感じる心のほうが大切だと思うのですが?感受性よりも知識が優先し、それが世の中では役に立ち、それがお金を生み、最終的に名誉を手に入れることができる。知識編重主義の今の時代にはとうてい受け入れられない考え方かもしれませんが、私たちが忘れつつある純粋な気持ちをもう一度思い返してみてはどうでしょう?
  この美しくけなげに咲いている花もいずれ枯れてしまう。この花に自分自身を投影してみる。花と自分を同じ命と捉え、花とひとつになり命のはかなさを感じる・・・自然の流れにすべてを投げ出し逆らおうとせず、流され続ける生き方も、私は悪くないと思います。
   
  武道の流派の違いも、この自然の風景に例えると理解しやすいかもしれません。長い枝、短い枝、太い幹、細い幹、まっすぐな枝、曲がりくねった枝、大きな葉、小さな葉、地中へ深く張った根、四方へ広がるように張った根。自然の風景のひとつ樹木だけを例に取り上げても、多彩な形容が存在します。そのたくさんある木の中で、我々はまず気になるのは、どの木が一番高価なのか?と値段が気になりお金でその木の価値判断をしようとします。武道ならば「どの流派が、一番強いのですか?」「プロになって一番稼げるのはどの流派ですか?」と聞くのと同じ次元です。
  自然の中に存在する木を一本を見て、人間が高い安いと論じてみても木にとってみればいい迷惑です。ただ自然の中に生かされてきただけなのに、勝手な価値を押しつけられ、あげくの果てに切られたり売られてしまうこともあるのです。まず私たちの身勝手な価値判断を止め、正面から何の先入観も抜きにそれを「それ自身」を観察してみる、恣意的な感情も抜きにして、ただみる。そこでどんな風に感じたか?人それぞれ皆、違うでしょう?

  どの世界の流派にも善し悪しは、ありません。その流派を継承してきた人々が、研究を重ね、鍛錬を通して自分に合った表現を体系づけて残したものが流派になったわけです。その流派を肯定も否定もする必要はなく、その洗練された表現方法が、自分に向いているのかどうかは自分にしか分かりません。決して他人から押しつけられるものではないはずです。自分にとって素晴らしいと感じるものを、自分はそうだからといって他人に押しつけるのは他の人にとってみれば迷惑なだけですね?誰もが経験して困ったことがあるはずです。
   興味があり好きであれば、興味が失せるまで続けるだろうし、そうでなければ途中でやめて他流へ移ればいいし武道だけでなく、他に興味を魅かれる趣味に出会えれば、それを始めるのもいいでしょう。あまり、かしこまって四角四面に考えるのもどうかと思います。

  自分自身も自然の力に生かされている身であり、その生き方に良いも悪いもありません。ある人は長く、ある人は短く、ある人は太く、ある人は細く、ある人は激しく、ある人は静かに、ある人は明るく、ある人は暗く生かされていきます。どの人生も一度限りの命を生きることには変わりはありません。人の人生に優劣をつけるような愚かな考えはきっぱりと捨てて、自分なりの生き方をすればいいのではないでしょうか?
  もうすぐ桜の季節がやってきます。どの桜の木も自然の恵みによって育まれ、年に一度の開花の準備をしているはずです。どんなに細く小さな桜の木も、人間の見方や評価などまったく気にすることなく、つぼみをふくらませていることでしょう・・・

  今年は、いつもより少し違った気持ちで桜をながめてみようと考えています。
                         3/9,2010