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エッセイ 
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「ただそのまま」

     「最近はどうですか?忙しいですか?」
     「忙しくて相変わらず大変ですが、何とかやってます。」
 
   良く耳にする会話ですね。忙しくしているのが当たり前、忙しいことがとても好ましく順調なニュアンスが含まれています。反対に忙しくないと怠けてサボっている、「暇を持て余しているということは、お前は怠け者だ!怠惰な生活をしているダメな奴だ!」マイナスのイメージしかありません。「毎日、忙しく働かなくてはいけない。忙しいことは当たり前です。」多忙というのは本当にそれほど価値のある状況なのでしょうか?
   2015年に、大手広告代理店「電通」で若い女性社員が過労自死した事件が起こり去年から話題になりました。この会社は、1991年にも社員が過労死をして問題になったとの事です。同じ過ちを度々、繰り返し大切な命がまたひとつ散ってしまいました。「有名な大企業だからしょうがない。利益追求が会社の究極目標だからトップを走り続ける為には、多少の犠牲が出てもしかたない。」と会社の上層部・役員たちの認識は、その程度で社員の命を取り換え可能な部品のごとく考えていたのでしょう?
   中学校の先生も宅急便の配達員も子育てママも保育士も介護士もみんな大忙し、何十年も前から幾度となく日本の働きすぎは社会問題として指摘があったにも関わらず、まともに改善されずにたなざらしにされていました。今回はさすがにやり過ごすことが出来ず、行政も重い腰を上げ改善に向けて動き始めた様に見えます。ただどんな規則・法律を新しく作ってみた処で、私たち一人一人の仕事に対する意識が変わらないと効果は限定的な気がします。どんなに祭日を増やしてみても、プレミアム・フライデーなんて訳の分からない英語をひねり出してみても、お役人の感覚と一般庶民の感覚は天地の隔たりがあるのに、それすら気が付かない感受性の麻痺したエリートら・・・どんなに学校の成績が優秀でも、どんなに偉い肩書を持っていても弱者の気持ちの解からない人間には、なりたくはありません。バカで良かった!こんなバカでも先ずは、労働基準法を徹底的に遵守させる方が先だ!ということぐらいは知ってます。ブラック企業、ブラック中小企業は、星の数ほど存在しています。憲法を改正する暇があったら労働者を守る、いや今ある労働基準法を守らせる努力をして下さい。「大企業の内部留保を吐き出させる。」とか、「ボーナスを上げる。」とか、「ベースアップする。」とかよりもまずはきちっと労使の規約約束を守る!当たり前のことをちゃんと当たり前に行う。何とかの日を新しく作るより、プレミアムなんちゃら日を奨励するより、何とかウィークを制定するとかよりは、ずっと効率的だと思います。独り言を言っていても仕方ありませんね・・・

   仕事をどう捉えれ生きていけばいいのか?人が生きていくには当たり前の事ですが、最低限の衣食住に必要なお金を稼がねばなりません。「この最低限のラインをどのあたりに設定するか?」「自分の生きる意味や目標を何に置くか?」によってその人の人生は変わってきます。人の生き方や職種に、好き嫌いはあっても良い悪いはないと思っています。新聞や本を読んだりテレビを観ていて、世の中には色んな仕事があり、色んな生き方があるのだなと感心することがあります。
   ありきたりの趣味ですが本を読むことが好きで、なるべく内容の簡単そうな思想・哲学・教育・エッセイ関連の本を読んでいるのですが、そこには「時間に追われ忙しくしている状態は好ましくない。」とよく書いてあります。一番良く目につくのは、『「忙」という字は、「心」を「亡くす」という意味で、心を亡くした状態の「忙しい」は、決してほめられるような状況では無い。』とあります。「仕事ばかりに時間を取られていると人生の楽しみも味わえず一生終わってしまいます。それでいいのですか?仕事が生きがいという人もいるでしょうが、それ以外何も興味がないのですか?運よく大好きな仕事に就けたとしても、それに人生すべてを捧げてもいいのですか・・・?」といったようなことが書かれています。自分の外の世界に心を向けるのではなく、自分の内に心を向けなさいと促す内容によく出くわします。
  「仕事」と「生きがい」は、やはり違うような気がします。生きるための楽しみがあるから仕事をする。このほうが自然だと思います。「仕事が自分に取ってすべて、少しでも多くのお給料を手にするためにだけ毎日、懸命に働いています。」では、何のために生きているのか?仕事をして生活費を稼ぎ、たまには自分に取っての楽しみに時間とお金を使う。音楽を聞いたり舞台を見たり芸能を楽しんだり、スポーツをしたり観戦・応援したり、ショッピングをしたり、旅行をしたり、友人・身内と話したりメールのやり取りをしたり、お酒やお茶を飲みに行くのも良いじゃないですか?それほどお金のかからない楽しみ方も沢山あります。仕事のことをすっかり忘れ、ほっと一息つける時間はとても大切な気がします。ストレスや心配ごとから一瞬でも自分を解放してやる大切な時です。
   若い頃は、嫌なこと辛いことむしゃくしゃする事が沢山ありました。年を取った今よりも間違いなく多かったようです。そんな時は、サンドバックやパンチング・ミットを叩いたり時には、練習仲間とスパーリングをしたりジークンドーの練習やウェート・トレーニングをしてストレスを発散していました。最近は、少しづつこだわりが減ってあまり頭にくる回数も減ったのですが、それと同時に気力も無くなって「ああしたい、こうしたい、あれが欲しい、これが欲しい!」という強い気持ちが減退してきました。年を重ね以前よりもストレスが減った分、練習時間もかなり減ってしまいました。残念ながらすべてに対しての積極性や情熱が無くなってきました。すっかり今はやりの「がんばらない」生き方にどっぷりつかっています。これを言い訳に使い自分を正当化しているのかもしれません。大抵の人は、仕事をしていれば悩みごとの一つや二つあると思います。それを軽減あるいは解消するために、心をリラックスさせる時間も大切ですし必要になってくるはずです。
  次に紹介するひろさちやさんの『「狂い」のすすめ』という本の中には、目的に向かって努力するのではなく、生きるとは゛プレイー遊び ”だと書かれています。この本の一番最後の章に書かれています。

    結論が出たようです。わたしたちはこの人生を、なにも世間に遠慮せず、しっかりと、-「遊びの」哲学-
   でもって生きましょうよ。そういう提案が本書の結論です。
    いま、わたしは゛しっかりと”と書きましたが、この言葉は誤解されそうです。そこで、゛遊び” といった言葉
   の意味を、もう少し考察しておきます。
    前章にも書きましたが、゛遊び”は、英語では゛プレイ(play)”ですが、この゛プレイ ”は゛ワーク(work)"
   に対比される言葉です。そして、゛ワーク"は、ある目的を達成するために努力して行う仕事や労働を言います。
   「仕事・労働」といえば、英語にはもう一つ、゛レイバー(labor)”があります。゛ワーク "も゛レイバー”も
   同じく目的達成のために努力して行う仕事・労働ですが、少しニュアンスに違いがあります。゛レイバー”のほうは
   肉体的労働が中心になっていて、苦痛ばかりが多く、精神的な喜びのない労働です。それに対して゛ワーク "
   のほうは、肉体的・精神的労働の両方に使い、たしかに苦痛を伴いますが、精神的な喜びもある労働をいいます。
   だいたいにおいて、肉体的な労働が゛レイバー”で、管理的な仕事は゛ワーク "です。
    まあ、ともかく、何か目的を持って努力をすると゛ワーク " か ゛レイバー ”になってしまいます。われわれの
   「遊び」の哲学は゛プレイ ”であって、これは目的を待ってはいけないのです。
    いや、目的というものは、シナリオ全体を見ないと分かりません。何億年にもわたる仏のシナリオの全体を、
   われわれ人間が読めるわけがなく、わたしたちはただただ与えられた配役をプレイすればいいのです。「遊び」
   の哲学です。
    いいですか、与えられた配役をしかめっ面をしてやってのけるのは、あんがい大根役者です。大根役者というの
   はまじめすぎる役者です。まじめすぎると、演技がこちこちになってしまいます。小学校の学芸会は、みんな
   まじめに演じています。もう少し肩の力を抜いて、楽しくプレイをしてください。といっても、それはなかなか
   むずかしいですね。楽しくのびのびと演技ができるのは、よほどの名優ですね。わたしたちはどうしても、まじめ
   に力をこめて演技をしてしまいます。
    しかしですね、わたしたちは仏のシナリオを演じているのです。そして演出家の仏は、それぞれの役者がのび
   のびとプレイすることを求めておられます。その演出家の要望にわれわれは応えなければなりません。だから、
   力んではいけないのです。
    どうか大根役者にならないでください現代日本人はまじめに働いて大根役者になっています。目的や目標に向か
   って邁進するのがいい演技だと思っています。でも、そのような演技は大根です。仏のシナリオは、わたしたちが
   人生を「遊ぶ」ように書かれているのです。わたしはそう思います。

  
  もうひとつ紹介したい文章がありました。心理学者の河合隼雄さんの「無為の力」という本の中にも、ほっとさせられる文章がありました。

  「ある」だけで十分ではないかー
     今のひとはみんな、「何かしなければ」と思い過ぎるんですね。何かをしていることが当たり前で、何も
   して いない人はサボッてると思われるのが現代ですけれども、時々は何もしないでボーッとしているという
   時間を持ったほうがいい。普通の人たちがそういう時間を積極的に持つようになったら、だいぶ違うと思い
   ますね。
     僕は、アメリカで向こうの人の生活をみていて気がついたんですが、「人類」って英語で「ヒューマン・
   ビーイング」でしょ。ところがアメリカにはヒューマン・ビーイングがいないんですね。では向こうの人は何か
   というと、「ヒューマン・ドゥーイング」ばっかりなんです。いつも「do」、つまり「あなたは何をしてますか」
   「私はこれこれをしています」ということばかり気にしている。本当はそれ以前に、もっと大切なこととして、
   「be」、つまり「私はここにいます」「ここに存在しています」ということがあるはずでしょう。それなのに、
   人間として「ある」ということに満足してボーッとしている人はめったにいない。みんないつも「何かをしなく
   ては」とあくせく動き回って、「俺はこれをやったぞ」といったアピールばかりしているわけです。ですから
   アメリカに行った時は向こうの人に、「もうちょっとヒューマン・ビーイングになったらどうですか」と言って
   笑わせていたんですけれども。
     「何もしない」というのは、なかなか難しいんですね。まあお金がなくて、したくても何もできないという
   状態もありますが、本当ならちょっとぜいたくですけど、わざわざ時間を取って「何もしない」というほうが
   充実しますよ。まあ、僕の場合はもともと心理療法で相手がいても何もしないでいるんですが、最近では一人で
   何もしないということもだんだん上手になってきました。

   確かにアメリカで生活していた時を思い出すとそうでしたね、アメリカ人は、自分のしたことを誇らしげに話しいつも自分の優秀なところを褒めて欲しそうでした。「成功」するためにいつも考えいつも行動をしていました。「成功」とは、人によってとらえ方が違うので何ともいえませんが、たぶん世間では富と名誉と権力を手に入れることでしょう。成功するために自分を最大限大きく見せ、多くの人に認めてもらう。「私は、あれもこれも出来ます。それも得意ですよ!」自信たっぷりにジェスチャーをまじえアピールしてくるのですが、話は半分あるいは三分の一くらいだと思った方がよさそうでした。
   その点、我々日本人は比較的ひかえめな性格な人が多いですね。「いえいえ、私なんかとんでもない、何もできませんよ!」謙遜するのが当たり前です。口にした言葉と内心の思いが違うということは正直ではない不誠実だとも取られます。これほど違う国民性、どちらも一長一短なんでしょうが、やはり日本人のわたしは「俺が、俺が!と前にしゃしゃり出る。」より「お先にどうぞ、どうぞ!」というほうが性格に合っています。もともと生まれつきノンビリでグズな性格ですから、先に行かれて手柄を取られようと、大金をつかみ損なおうともあまり気にならないほうです。全く気にならないと言えば嘘になりますが、「仕方ないな・・・縁がなかったな・・・あきらめよう!」と気持ちを切り替えるしか方法がありません。「今までだってお前の人生、一度もそんな美味しいことは起こったためしは無いだろう?それがお前の宿業だ!」- 目に見えない大きな力にそう耳打ちされた感覚です。
   いいじゃないですか?他の人は欲しくて欲しくて仕方なくて、いままでずっと手に入れようと我利、我利と頑張って自分の10倍も努力したんだから、その人に手に入れてもらったほうがいいでしょう。相田みつおさんの有名な言葉で「セトモノとセトモノとぶつかりっこするとすぐこわれちゃう どっちかやわらかければだいじょうぶ やわらかいこころをもちましょう そういうわたしはいつもセトモノ」まったくぶつかりあわない生き方、むつかしいですね。やわらかいこころもどうやったら持てるのでしょう?欲がある限りは皆、かたいセトモノでしょう?私は、さしあたってヒビ割れだらけの湯のみ茶碗ですか?お茶を注いでも注いでも漏れ続ける・・・いつまでたってもお茶を口に出来ません。割れて粉々になる一歩手前という感じです。これ以上ぶつかると粉々ですから、なるべくぶつからないように、最初から避けて近づかないように心がけています。

                  
 

   時々、ふと思うのですが、映画の「寅さん」のような生き方がしてみたいなと。「寅さん」は実在の人物ではありませんが、「山頭火」「尾崎放哉」のように俳句に人生をかけ常識外れで破天荒な生き方もいいなと・・・「山下清」「松尾芭蕉」みたいな日本中を旅しながら絵を描いたり俳句を作ったりする生き方もいいかな?他にも「西行」「鴨長明」など世を捨て誰からも何からも束縛・制約をうけず自由気ままに生きた人がいます。自由な生き方に憧れたことは、誰でも一度くらいはあるのではないでしょうか?
   憧れはあっても、「じゃ本当にそんな生活ができるのか?」と問われればとても自分には出来ません。そんな無鉄砲をする勇気が無いからです。つまり現在の自分とあまりに違うから彼らの生き方に憧れるだけで、本当は心の底からそうしたいと望んではいないのです。単なるいつものないものねだりなんでしょうね。今の置かれた状況から離れてみたい、そうすればいずれ何か素晴らしい理想郷が出現するのではと勘違いしているだけなのです。
   「隠遁・遁世・出家・世捨」といった言葉に心をひかれるということは、年を取った、すでに人生の後半に差し掛かったという証なのです。
「人の生き方に良いも悪いない。死に方にも良いも悪いもない。」とよく言います。生き方も死に方も自分の思いどおりにはならない。自分の力を頼り、どれだけ努力してもではどうにもならないことは沢山あります。今までの自分の人生を振り返ってみると8割は予定外だったような気がします。ただ自分の思惑どおりにはほとんど進まなかった割には、不幸でもなかったかなと感じています。「すべて気の持ちようだ、とらえ方次第で幸せにも不幸にもなる。」とよく言われますが、的を得た格言だと思います。みつをさんの「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」という有名な言葉もありましたね!
   「種田山頭火」「尾崎放哉」「山下清」「松尾芭蕉」「西行」「鴨長明」彼らは、自ら自由に生きようとは考えていなかった。そんなことはこれぽっちも考えなかったのでは?と私は思います。自分の好きな生き方しか出来なかった。あんな生き方しかさせてもらえなかった。自由という言葉に憧れるということは、今の自分が縛られて自由ではないと思っているからでしょう。現代社会に生きているわたしたちは、色んなものにしばられて窮屈さを感じながら生きている。だから彼らの生き方がとても自由に新鮮に見えてしまうのでしょうね。
   たぶん彼ら本人たちは、自分が自由奔放に生きているということさえ自覚していなかったのではないでしょうか?ひろさんが言う大根役者ではなく、楽しく力まずに自然な演技をした名優だったということでしょう。自分で俺はこう生きるのだと決めて、それを目標にして努力したのではなく、おのずからなるがまま、無為のまま、風や雲や水の流れに身も心もあずけそのまま生きて死を迎えたのでしょう。何かに心を突き動かされ、ただ好きな事をして、それをやり続けた。自分の理想の生き方から脱線したかもしれないがそうするしかなかった。何度も落ち込んで失望し挫折し、劣等感にさいなまれ何度も反省しながらも生かされて行く、すべての人に程度の差はあれ共通しているのではないでしょうか?つまり自分の力で生きているのではないから、人の生き方には良し悪しはまったく関係なく、どんな生き方、死に方をしようとも関係ない。そんなことにこだわる必要は、まったくない「ただ受け入れるだけ、そのままでいい!」と私は理解しています。
   
   この世に起こるすべての事象が目に見えない大きな力に影響されているわけですから・・・「自」おぬずから「然」しからしむる「人」のはからいにあらず。「自然」「じねん」仏教的な解釈がぴったり合うように思います。この「じねん」が総指揮・総監督を引き受けこの地球上で壮大なドラマをくりひろげている。この地球という舞台には、現在約73億人の配役があり毎日、上演されているということですか?命がつきその役柄が終わると極楽という名の楽屋に戻っていくのでしょう。ほんの一瞬で終わる役もあれば、100年以上も演じなければならない役もあります。自分の役柄は自分では決められませんが、演技を終えて行き着く楽屋はひとつだけなはずです。みな同じ場所です。この楽屋は大部屋で皆すべて平等で平座です。仏教では、「俱会一処」(くえいっしょ)という言葉があります。「お疲れ様!」一刻、一刻、掛け声が響いています。そこには多分、もう一度違う役を引き受け、これから出番を待っている人々もいるのでしょうね?「行ってらっしゃい!」の掛け声と共にこの世に生を受け新しい役を演じ始める。このふたつの声をいつも聞き取れるような心を持ち合わせていたいと切に願っています。「生と死」言葉は反対の意味にとらえられがちですが同じなんですね?「生は良いが、死は悪い。」生だけを考え生きていくと、ある時あわてふためいて恐怖におののくことになるかもしれません。
   生死は同じです。今までこの世に生を受け死を受け入れ去っていったすべての人々が、同じ楽屋にいると考えると寂しくも悲しくも不安もないなと感じるのは私だけでしょうか?祖父も祖母も8年前に亡くなった母も弟もそこにいるのですから・・・
   73億人の中の一人、今よりいっそう力を抜き、そのままがんばらずのびのびとした演技をしていければと願うのですが・・・待てよ、よく考えたら力を抜く必要もないのですね!自分で努力する必要もなく今のまま、すべてをまかせて生きれば、生かされればいいのでした。じねんは、おのずとそうなるのですよね?むこうからの「楽しんで、遊びの人生だからね!」の声にうなずいていれば、ひろさんのいう大根役者は存在しない、みんな名優ということじゃないですか?
   もっともらしいことを言いながら、でも出来ることなら次回の新しい役は、主役級のカッコいい役が欲しいなと思う、まったくまかせきれない情けない自分がここにいました。もし主役をもらったら、目いっぱい肩ひじ張って歌舞伎の様な演技をしてしまうんだろうな?僕にはエキストラくらいが気楽で丁度良いかもしれません。

                                               10/30, 2017
    

「師なき後を想う」


   
時々、ふと思う事があります。人にたびたび聞かれるという理由もあるかもしれませんが、「もしブルース・リーが今生きていたらどうしているだろうか?今、どこにいて、何をしているだろうか?」もちろん想像するしかありません。この質問に対して、あくまでも勝手な妄想を繰り広げてみようかと思います。

   彼は、1973年、世界中で大ヒットした代表作「燃えよ!ドラゴン」の公開1ヶ月前に、この世を去っています。その後、あれだけの大成功を収めた事実を知らずに他界したわけです。ただ完成したフィルムの最終チェックを終えた時、「間違いなくこの映画はヒットする!」と確信したそうです。世界中で名が知れ渡り巨万の富を手に入れた後、どういう生き方をしたのだろう?

   生前、彼の残したメモの中には、「40歳になるまでに映画で成功を収めひと財産を築いた後は、世間からは離れ自分の理想とする思想・哲学を求め安穏とした生活に入るだろう。」と記されていました。自分は、あくまで武道家だとこだわっていましたから、年を取って動きが鈍ってもなお映画を作り続けたとはとても思えません。スクリーンの中で納得のいく華麗な動きが出来なくなり最高のパフォーマンスを見せられなくなった時には、あっさりと映画製作の世界から身を引いたのではないでしょうか?「燃えよ!ドラゴン」公開後は、当然ハリウッドから再度、出演依頼が何本も入ったでしょうし、40歳になるまでの7年間で何本かの映画に出演したでしょう。このあたりまでは間違いないと思います。
   
   「その後は、彼はどういう生き方をしたんだろうか?」
   この問いに創造力を働かせながら、たぶんこうではなかっただろうか・・・と推測してみます。皆さんも自分なら「こうなってたんじゃないかな?」と私とは違う視点から見て想像するのも楽しいかもしれませんね?

   たぶんアメリカで映画出演・製作を終えてより高額なギャラを手に入れ、もっと名声も上がったことでしょう。映画界から身を引いた後、武術の修行を続け思想的探究をしながらジークンドーの哲学的体系を具体化していったのではないでしょうか?アメリカに残ったか、他の国へ移住したか?それは分かりませんね。以前に一緒に練習した弟子たちが戻ってきて、新しい道場を立ち上げたかもしれませんし、以前のように自宅のガレージでセミ・プライベート的に指導したかもしれません。ジークンドーと創始者ブルース・リーの名は世界中に轟いている訳ですから、練習生は世界中から殺到したでしょう!投資家からは、ジークンドー道場をフランチャズして世界中に広めようと安易なビジネス展開の話も舞い込んだかもしれません。20代の若かった時には、そんな夢を持っていたという話は残っていますが、富も名声もすでに手中にした40代の彼が、今さらそんな提案に興味を示したか?それは無かったのではと私は推測します。
   支部道場のフランチャイズ展開はせずに、自分の考えにそって自分なりの練習を続けたと考えるのが自然でしょう。彼は武道家であり俳優でありアーティストですから、指導員には向いていなかったのでは?と思われるふしがあります。まず性格が短気だったこと、武術的な反射神経や運動能力が人よりも抜きんでていたこと。アメリカ滞在に見切りを付け香港へ帰るまでロサンゼルス・チャイナタウンで開いていた道場、振藩国術館も通常クラスの指導は、ほぼイノサント師が受け持っていました。たぶん初心者を相手に、基本から手取り足とり指導を行うことはブルース・リーに取っては苦痛だったようです。中級者以上のレベルの生徒さんへ一対一のプライベート・レッスンあるいは2~3人のセミ・プライベート・レッスンであれば、生徒さんに取って最も足りないところへ的確なアドバイスと指導がおこなえたでしょう。一人ひとり習得能力も習得段階も違う訳ですから、指導をするには、人数は少ない方が効率的だったはずです。もし「指導員にもっとも必要な資質は?」と聞かれたら私は、「1にも、2にも忍耐です。」と答えます。
   たぶん彼は、気心の知れた以前の生徒さん、熱心で謙虚な新しい生徒さんを受け入れ、自宅の裏庭で共にジークンドーの技術体系に磨きをかけ、読書三昧の日々を送りジークンドー哲学確立をめざして生きていったと思います。たまには、テレビ出演したり雑誌や新聞の取材を受けたり、本も出版していたでしょう。もうじき存命なら75歳になる彼の容姿だけは、想像出来ません。映画の中の若く強くエネルギッシュなイメージが強すぎて・・・やはりヒーローは、永遠に若くてカッコイイんですよね!これですべて良かったんです。ヒーローに、「もし」「たら」「れば」の付く邪推は必要ないんですね?最初から決まっていた苦難と栄光の32年間を彼なりに生かされ生き切った、ということでしょう。

   前のエッセイにも触れた記憶がありますが、フランチャイズするには教則本、指導マニュアルを作り練習内容を画一化させねばなりません。世界中のどこの支部道場もまったく同じ動作を同じリズムを反復練習をせねばなりません。それを強制され型にはめられ自由な発想や創造力は押し潰されていまいます。どの流派にも原理・原則はあるでしょう。それをも理解・習得せずに最初から自由勝手な練習をすれば良いというものでもありません。皆、人それぞれ特徴・個性があり上手く出来る動きもあれば苦手な動きもあり、長期間の練習をすれば出来るようになる人もいれば、一生かけても出来ない人もいます。マニュアルは人をふるいにかけ選別し出来なければその時点で落後者を生み出してしまいます。出来ない人、下手な人、おぼえの悪い人は、必要ないのでしょうか?
   中には少数かもしれませんが、マニュアルはあくまでマニュアルであり、完全にそれに寄りかかるのではなく、参考にし自分なりにアレンジをして本質に近づこうとする優秀な修行者も出現することでしょう。マニュアル指導を100%否定はしませんが、ブルース・リーが理想とした教授法ではないと思います。彼の残した文章の中に、次のような言葉があります。
  
   「教師はマニュアルでつくられるものではない -よき教師はマニュアルでつくられるようなものではない。
    よき教師は、生徒たちに血の通わないパターン、あらかじめ用意された公式を押しつけ、型にはめるような
    ことがあってはならない。」 ブルース・リーが語るストライキング・ソーツ p.125
   
   「教えることは、密接な関係を結ぶことである -私は大組織を決して信じない。その国内外の支部や系列の
    組織なども同様だ。大勢の人に働きかけようとすれば、何がしかのシステムが必要になる。その結果、関係者
    は全員そのシステムによって条件付けられるようになる。私は少人数にのみ教えるやり方を信条としている。
    なぜなら少人数制では、本物の、密接な関係を確立するための手段として、一人ひとりを常に注意深く観察
    することが要求されるからである。」 ブルース・リーが語るストライキング・ソーツ p.128

     
   マニュアル教授システムは、明らかにブルース・リーが理想としたジークンドーの教えからは、外れてしまいます。では絶対にそれはダメなのか?完全否定される方法なのか?そうも思いません。薄く広く伝わるという点では、良いのかもしれません。真髄までは伝わらなくても表面的な部分は伝わるでしょう。短期間のうちに、一人でも多くの人に伝えよう広めよう普及させようと思えば、マニュアル・システムしかありません。多くの人が、集まれば集まるほど、さまざまな問題が起きてきます。人間関係、金銭問題、権威問題など必ずトラブルになります。「人は3人集まれば、2対1に分かれ争いを始める。」と言われています。お互いにいがみあい、罵倒しあい、憎しみあう、それほど愚かな存在なのです。もちろん私を含め、欲にしがみつき流され、少しも理性が効かない愚かな人間なのです。どんなに立派に博識が有りそうにふるまっていても、どんな立派な資格を持っていても、どんな高位な役職についていようとも人としての愚かさは同じ。程度の差はあれ50歩、100歩だと思います。今まで間違い、失敗だらけの生き方をしてきて、これからも死ぬまで後悔の連続だと考えると、ため息しか出ません。
   ジークンドーという武道に出会い、それを指導する立場にいる訳ですが、今まで何百人もの生徒が去って行きました。自分の教え方が至らずに、私の人間性にあいそをつかせやめて行った人も多々いたはずです。「あんなアホな先生には、ついて行けない!」と言われていたのでしょう。ただ道場内では、いつも心がけている事があります。「いばるな!えらそうにするな!同じ目線で!」そんなんじゃ先生としての威厳に欠けるじゃないかと思われるかもしれませんが、それくらいが調度良いのです。どんなに心がけていても横柄な生意気な自分が突発的に表れ、後で反省しきりという事が時々あります。モグラたたきと同じ、叩いても叩いても傲慢、横柄、生意気、自分勝手は、次から次に頭をもたげて来ます。少しは、謙虚な人間に近づきたいものです。

   マニュアル・システムで、100%は伝わないかもしれない?でも半分は、50%くらいは伝わるかもしれない。半分もあればそれで充分という肯定的な捉え方もあります。それを承知の上でそのシステムを採用し残りの伝わらない部分をどう穴埋めしていくか?そこを自覚して、足りない部分を補っていく方法を考え補習していけば70%~80%くらいはカバー出来るかもしれません。
   中にはとても習得能力の優れた人もいます。「一を聞いて百を知る。」ようなとんでもない天才がいます。とても想像力、洞察力が秀でた人は、マニュアルで50%しか伝わらないどころか、そこに書かれていないことまで推測してそれ以上200%
、300%も理解してしまう人もいます。
   もうすで失伝してしまった技を、古文書や教伝書をひも解きながら研究、工夫しながら再現されている有名な古武術の先生もいらっしゃいます。個人的には、とても興味があります。失った宝を見つけ出す過程は、わくわくするしそれを発見した時の喜びは何物にも代えがたい満足感が得られるのでしょう!200年、300年前の人達は、どう動いていたか、?どれほどの運動能力を備えていたか?間違いなく現代人よりも力強く、たくましく、耐久力もあったことでしょう。よくコンピューター・グラッフィクでの再現映像などが映画やTVで流されますが、それを自分の身体で再現する・・・とてもロマンティックな世界じゃないですか?それを生きがいにしておられる先生からは、「そんな甘いもんじゃない!」と叱責されそうですが?
   
   進化・進歩が全ての面において良いのか?進歩しなければいけないのか?古いもの伝統的なものはすべてダメで、新しく発見されたもののほうがすべて優れているのか?科学や医学は、永久に進歩し続けるでしょう。しかし、それによって人間が本来持っていた、動物的な能力や感覚は退化してしまいました。新しい発見が、またひとつ人間の所有する能力の喪失につながることもありえます。
本来、私たちが自然に身につけ、当たり前に使っていた体の使い方を忘れてしまった。気がつかないだけで、すでに喪失してしまった感覚は沢山あるような気がします。
   前に進み続けなくてはいけないのだろうか?すべて進歩が良いのか?成長しなくてはいけないのか?年を取ってから、たびたび頭をよぎります。経済だって成長が永遠に続くとは思えないと人々は、気づき始めています。「もう良いよ。充分、進歩し成長したから。もうそんなに自分にムチ打たなくても、これからはノンビリと気ままに生きて行こう。」という人々も増えて来ています。
   進歩で得たもの失ったもの、たくさんあったはずです。でも科学や医学は永久に進み続け、止まることも後退も許されない。そして毎年、ノーベル賞が話題になります。人間に欲が有る限り、何事も前へ進み続ける・・・当たり前ですね。
   すべての分野の進歩・進化・発展のおかげで、生活がより便利になり、効率的になり、利益が増える。その反面、人間の運動能力、潜在意識、第六感(インスピレーション)、抵抗力、自然治癒力等が退化減少していくわけです。進化と退化のバランスは、どの程度で成り立っているのか?興味があります。プラスとマイナスのバランスの取り方は、その人、個々の考え方、受取り方により変わって来るのでしょう。その人の生き方・哲学にかなり左右されると思います。体調が悪くてもなるべく薬を飲まず、医者もめったにかからない人もいます。なるべく乗り物に乗らずに徒歩や自転車を使う人、エレベーターやエスカレーターをさけて階段を使う人もいます。都会での生活を嫌い田舎で暮らす人もいます。インターネットやスマートフォンなどを使用せず固定電話、FAXや手紙を使う人もいます。新製品が出ればすぐ買う人、古いものをいつまでも使う人もいます。どちらが都合が良いかは、個人の選択であり他人がとやかく「どちらが良い。悪い。」と言う必要は無いでしょう。
   プラス(ポジティブ)とマイナス(ネガティブ)のバランスの取り方は、その時代によりその個人の考え方により変わり続ける。自分自身に取って精神的な陰陽の調和をどのあたりで取るかに似ているような気がします。どんな生活環境に置かれようと気持ち、心のバランスを保つことが出来ればあまりイライラせず、不満も怒りも無い平和な日々を過ごせそうです。ただ多少のストレスは、生きていくうえで必要だと言われていますから、適度な刺激やストレスを感じることは必要ですね。
   
   結局のところいつも同じような結論に達してしまうのですが、どちらかへ極端に偏らない方が良いということですか?プラスとマイナスがあればそのバランスの取り方は沢山あり、プラスよりの時もあればマイナスよりの時もある、調度ど真ん中に位置する時もあるのでしょうが、それを測定する目盛りが無いのです。中庸が大事という考え方に賛成ですが、中がどのあたりなのかよく判りません。たぶんヨットの操縦に似ているかもしれません。風や波の自然の変化に合わせ帆の角度や長さを変えて船体のバランスを取り進んでいく、人の生き方と同じかもしれません。なにも最短距離を最速で進まなくても、転覆しなければ良いし、もしひっくり返ったならば、船体を起こしまた始めるだけのことです。風や波のような自然の変化は、その時代の医学や化学の進歩によりもたらされた生活環境の変化であり、帆の長さや角度を変えバランスを保つのは、その中にある技術や思想を選択して平穏な生活をしていくことだと思います。
   よく言われる「黒か白か、グレー(灰色)か?」すべてグレーで良いと思います。真っ黒に近いグレーもあれば、真っ白に近いグレーもあるわけですから・・・自分の意志に反して黒に近づくこともあれば、白に近づくこともある。このグレーな世界で右に寄ったり左に寄ったりしながら波のように漂う。目に見えない大きな力がそうさせ、愚かな私たちには抗えない「あわい」の世界に生かされている。はっきりしない、うすい、きえそうな、ぼーっとした、あいまいな、うつろな「あわい」な世界を漂っていくという感じですか?「あわい」何か神秘的な響きのある素敵な言葉で、いいですね。また機会があれば取り上げてみたいテーマです。

                    
                                                11/9,2015

                      
 「荘子と截拳道」  

         自ら一派を興した創始者は、何らかの真実の一部に触れたかもしれない。しかし、時が過ぎ
       とりわけその創始者がこの世を去ると、この不完全な真実が法となり、さらに悪い場合は「異端」
       集団に対する偏見に満ちた信念と化す。この知識を次世代に伝えていくために、様々な御信託を
       整理し、分類し、論理的な順序に従って提供する必要が出てくる。かくして最初は創始者の個人的
       内観の類いだったと思われるものが、今や固定化された知識、保存処理を施された大衆向けの
       万能薬となる。その過程で門人たちは、その知識を神聖不可侵なものと見なすだけでなく、創始者
       の知恵を埋葬する墓場にしてしまう。組織化と保存の性質により、その方法論は非常に手の込んだ
       ものとなってそちらに大変な注意を払わねばならなくなり、次第に本来の目的が忘れられてゆく。
       門人はやがてこの「組織化されたもの」が現実の全てだと受け取るようになる。もちろん「もう一つ
       の真理」に直接対応するものとしてより多くの「異端的な」研究方法が発生することだろう。そう時
       をおかずにこれらの研究方法も大きな組織を生み出し、各々が「真理」の所有を主張してあらゆる
       他者を排除するようになるのである。
                   「ブルース・リーが語るストライキング・ソーツ」p.195 (福昌堂刊)

   ブルース・リー自身が、自分の亡き後を予見したのではないかと思われる文章でハッとさせられました。生前、彼が研究・練習した多くの流派がそうであったように、芸道や宗教どの世界においても同じようなことが起こり、ジークンドーも同じ運命を辿るのだろうと見透していたようです。
   「何らかの真実の一部にに触れたかもしれない。」これは、彼の正直な思いだったでしょう。真実を獲得したとも悟ったとも断言していない。真実のほんの一部に触れたかもしれないが、気のせいだったかもしれない。まったくの勘違いだったかもしれない。そんなあやふやな表現ですが、とても謙虚で誠実な言い回しだと感心します。彼は、32歳で自分があれほど早くこの世を去るとは思いもよらなかったはずです。たかが30そこそこの青年が真実を会得出来るはずがない。自分の未熟さを充分理解していたはずです。これから長い年月をかけてしっかりと見極めようと努力し続けたことでしょう。60歳・70歳になればもう少し確固たる何かに触れ、もっと真実に近づけるのではないか、はっきりしないもやもやしたものに光が当たりそれらしきものが見えてくるという思いで修行を継続して行ったことでしょう。
   ただの個人的な内観の部類とは、自分自身が見て感じて理解した武術・格闘技の世界、生き方、思想でありブルース・リーという人間、一個人の世界です。自分が思索した世界を出来るだけ文章で書き綴り、生前とても多くの文章を残しました。それはすべて自分なりの真実に近づくためのただの道しるべでありガイドブックのような存在で、その程度のもので大それた聖書や仏典に相当するものではなかったと思います。それを神聖な規律・形式・原則に塗り替えて崇めたてまつるのは、違うような気がします。たぶん、彼は武術を志す者へ修行とはこうあるべきではないか?古来の伝統的な形式的な方法に対して、向上心への啓発や気づきを促すためにジークンドーという言葉をつくりジークンドーに対する自分の思いを書き残していったのではないでしょうか?
   固定化された知識、保存処理を施された大衆向けの万能薬で門人を眠らせてしまってはいけない、覚醒させ続けなくてはいけないはずです。先生の作ったマニュアル・指導手引書にある動作を何度も反復する。ただひたすら催眠術を掛けられたように、何の注意も払わず思考停止したまま、みな固定化された同じ動作を繰り返すことは、ジークンドーの思想に従ったやり方でしょうか?

       固定化され、型にはまったパターンには適応性も柔軟性もない。固定化されたパターンの中に
       真理はないのだ。

       古典的な手法や伝統は、心を奴隷にしてしまう。あなたはもはや個人ではなく、伝統の産物
       の一つだ。あなたの心は無数の昨日の帰結である。

       最も重要なのは個人であって、システムではない。人間が手法を創造したのであって、手法が
       人間を創造したのではないことを忘れてはならない。そしてまた、誰かが前から考えていた
       ようなパターンに自分を無理に合わせようとしてはならない。それはその人には申し分なく
       合っていたのだろうが必ずしもあなたに合うとはかぎらない。
                   「ブルース・リーが語るストライキング・ソーツ」p.197 (福昌堂刊)
     
       いいかい、やり方は色々ある。でも、一つのやり方に限定されてはいけない。僕たちは
      「自分自身のやり方」でアプローチしなければならないんだ。僕たちは常に学びの途上にいる。
       ところが「スタイル(あるいはシステム)」というのはすでに結論付けられ、確立され固形化
       されたものだ。本当はそんなことをしてはいけないんだ、人は年を取るにつれて毎日何かを
       学んでいるんだからね。
                   「ブルース・リーが語るストライキング・ソーツ」p.198 (福昌堂刊)

       私はもうシステムや組織に興味はない。会の組織化が進むと、人を系統化された概念の
       パターンに閉じ込めてしまう傾向があって、その指導者たちは決まりきった手順に縛られ
       ていることがしばしばだ。無論、組織の成員たちに時代遅れの前成説を受け入れるよう強制
       して、彼らの自然な成長を妨げてしまうようだと、事態はさらに深刻だ。
                   「ブルース・リーが語るストライキング・ソーツ」p.199 (福昌堂刊)

   真理を掲げた組織は、永久保存版の教義を盾にして他を排除して異端とみなす、異端とされた組織はまたもう一つの真理を掲げ他を排除する。真理とやらはいくつあるのでしょうか?私は、異端的な立場にいますが、ただそこにいるだけです。気にしていませんし異端という言葉にまったく違和感がありません。むしろ気に入っています。排除する立場よりも排除された立場にいた方が気が楽ですし・・・いい加減で、でたらめをやっても許される訳ですから、今現在の自分自身がそうであるように。もし大きな感違いをして真理や正義を掲げようものなら、その責任と重圧に耐えられず、すぐにつぶれてしまうでしょう。それほど強健な肉体と精神を持ち合わせていませんから。
   
   そういえばブルース・リーが傾倒していた老荘思想の荘子の中にも、いくつか大事な教訓となる言葉があったような気がしますので、いくつかここに載せておきます。自分の胸に手に当て反省しながら読み返してみようと思います。
   
   とてもやさしく明解に書かれている加島祥造「荘子ヒア・ナウ」PARCO出版から引用させてもらいます。

       ーすべてのもとは、ひとつー

        すべてのことは「これ」だとも言えるし、「あれ」だとも言える。
        ひとりの人が「これ」と見ても、他の人は「あれ」と見る。
        人というものは、自分が知っているところから物を判断する、
        そして自分の知ったところから「あれだ」とか、「いや、これだ」と言う。
        だがね、本当は「あれ」でもあるし、「これ」でもあるんだよ。
        そこから分かれて出てきただけなんだ。

        命は死から出てきたし、やがて死んで行くものだ。
        だから同じことなんだ。
        何かを指して、これは悪いといっても、
        それはね、こっちが正しいとするからそっちを悪いとするだけなんだ。
        だから、本当に賢明な人はこういう区別を超えた、
        遠くて高い所から、ものごとを見ようとする。
        彼はね、「これ」と言ったときには、
        もうひとつの「あれ」のほうも見ている、
        そして、「あれ」が、「これ」であるってことを知っている。
        すなわち、ひとつのものには、
        正しいと間違いの両方が含まれているんだよ。

        このように、「これ」とか「あれ」とかいう区別を超えた場所に
        タオで言う「静かな一点」があるんだ。
        この「静かな一点」は、
        すべてのものの中心軸 ータオの核ー なんだよ。
        この中心軸が君の中にぴたっと据わると、
        「正しい」も「間違い」もなめらかに回転する。
        正しいと間違いとを超えた向こうの、「あの光」を見ている。
        それが、本当の知恵というものなんだ。
        
        右とか左とか、善とか悪とか、
        そういう区別があったとしても、そのふたつは、やがて一緒になる。
        そして溶け合う。
        すべてのものは、いつか、ひとつになる。
        本当に見える人は、
        「すべてはひとつ」という原理をよく見つめた人なんだよ。
        その人には区別なんかしても役に立たない。
        いつも、区別を超えた場所にいるんだ。
        そして、区別を超えていて、いつも変わらないということは、
        生きる上でとても大切なんだ。
        それは、本当の自分の性質にかえる、ということだよ。
        自分の本当の性質の中にいるとき、人は幸福なんだ。
        幸福に至ったとき、まあ、完全に生きていると言える。
        これが、タオさ。
                                 p.26~p.29

       ーむだな議論ー
        
        いいかね、もし君と僕が議論してだね、君が勝って僕が負けたとするよ、
        するとそれは、君が正しくて、僕が間違っているということになるね。
        その反対に、僕が勝って君が負けたら、
        僕が正しくて君が間違っているということになる。
        本当にそうだろうか。
        実際は、僕らは、お互いに一部分だけ正しくて、
        一部分が間違っているだけじゃないかね。
        どっちかが全面的に正しくて、
        どっちかが全面的に間違っているなんていうことがあるだろうか。
        そうすると、じゃあ、誰かに審判を頼むことになるだろう。
        誰か君の意見に同意する人に頼むかね。
        君に同意している人は、僕のことを悪く言うだけだろう。
        僕の意見に同意している人に頼めば、
        その人は、君のことを間違っているというだけさ。
        じゃあ、君と僕の両方に同意している人を探すということに
        なるのかね?もしその人が、
        僕らふたりの言うことを、両方とも正しいと思うんなら、
        裁くことなんか、できないだろう。
        もし、君にも僕にも「大きな真理」を見られないのなら、
        他の人には、ますます見られないんじゃないかなね。
        結局だね、もっと大きな宇宙の働きというものを見て、
        いいの悪いのと議論なんかしなければ、
        ゆったりとした人生を送れるんだよ。
                                   p.34~p.36

      ー大きな知恵ー

        大きな知恵というのは、ゆったりとすべてを包みこんでゆく。
        小さな知恵というのは、片一方にかたよって、こせこせしている。
        大きな知恵からくる言葉は、簡明で静かだが、
        小さい知恵からの言葉というのは、かん高くてうるさいのさ。

        たとえば眠っているときには、われわれは大きな魂に触れている。
        ところが、目を覚ますと、五官が開き、
        その五官を働かせて活動をし始める。
        頭も、気もあれこれ散り始める。
        迷ったり、くじけた気持ちになったり、いじけた気持ちになったりする。
        いろいろ小さな心配ごとが生じたり、大きな恐怖にとりつかれたりする。
        心というやつは、まるで矢のように、あちこちへ飛んでいくものだよ。
        そして当たったものを勝手に判断するー
        自分の考えが正しい、とね。
        何にぶつかっても、自分が正しいと思う。
        ところが、そんな君の意見なんて、長続きするものじゃないさ。
        秋が来たり、冬が来たりするように、
        いつしか変わっていくものなんだ。

        また、詰まった管みたいに、いろいろなものが行き止まりとなる。
        しまいには、若さを失って、死に近づいていくわけだ。
        喜びや怒り、悲しみや幸福、希望や恐怖、気の弱さや強さにとらわれ、
        尻ごみしたり、向こう見ずに進んでいったりする。
        夢中になったり、傲慢になったりする。みんな
        葦の管に吹く風の音みたいに鳴り、また、
        地面に生えるキノコの群れみたいに、
        たえず出てきて消えてゆく。
        すべてのものが、動いては止み、動いては止みする。
        だから、気にするんじゃないよ。
        小さなことは、放っておけばいいのさ。
        
        もちろん、こういうものがなければ、自分というものは存在できない。
        また自分というものが、いなかったら、
        相手もいないのと同じことだ。
        これは、なかなかすばらしい真理なんだが、
        なぜそうなっているのか、分からないんだ。
        本当のところ、この自分と相手との間には、
        両方に働く何か大きなものがあるんだが、
        それは誰にも分からないでいる。
        私は、その大きな働きに運ばれていると信じるがね、
        ただ、それは目に見えるものじゃないんだ。
        感じてはいるけれど、形に示せるものじゃないんだ。
                                     p.162~p.165

      -自分を忘れるー
        
        顔回(がんかい)が孔子にこう言ったそうだー
        「私、ようやく少し進歩しました」
        「どういうふうにだね?」
        「もう、人間性とか正義なんかにとらわれなくなりました」
        「ああ、それはけっこうなことだ」
        と、孔子。
        「だがな、それだけじゃあ、まだ完全じゃないね」

        また別の日、顔回が孔子に言った。
        「また少し進歩しました」
        「どんなふうにだね?」
        「私、世の中の礼儀やしきたりを、もう捨てました」
        「それはけっこうだ。だがな、まだ完全じゃないね」

        また別の日、顔回が孔子に言った。
        「また少し進歩しました」

        
「どんなふうにだね?」
        「部屋に坐っているとき、坐っている自分を忘れるようになりました」
        「それはどういう意味だね?」
        と、孔子がちょっと顔色を変えながら聞いたそうだ。
        「私は自分の体から自分を自由にしたんです」
        と顔回。
        「つまりですね、考える力を捨てたんです。
         体のことと心のこと、この両方を捨てたんです。
         すると自分が無限の何かと一緒になったんです。
         坐っていて自分を忘れたと言ったのは、そういう意味なんです」
        それを聞いて孔子はため息をついてこう言ったそうだ。
        「もしおまえがそこまでタオと一体化したのなら、
         もう、好き嫌いにとらわれないだろう。
         もしおまえがそこまで変化自在となったのなら、
         もう、ことにこだわることもないだろう。
         どうやらおまえは、本物の賢者になったようだね。
         私はお前の弟子になろう」
                                     p.176~p.178


                      
                      
                                                
9/19, 2014

「徒然草に思う」

   
最近、外出するたびに感じる事があります。人の歩くスピードが速いのです。どうしてみんなそんなに急いでいるのだろう?そんなに急いがなくても良いのに、慌ててもろくな事ないよ!世の中すべての物事のスピードが速くなっているように感じるのは、ノロマナ自分だけだろうか?あるいは、加齢のせいで体力が落ち歩く速度が落ちたのか?子供の頃から「動作が遅い!」と先生から叱咤されていた記憶は、未だに頭の隅に残っている。先天的に受け継いだ性格なのだから、どうしようもないだろう。
    速く!強く!多く!この3拍子を極限まで高めることが理想とされる時代なのかもしれません。何事もなるべく早く効率良く進めばそれだけ多くの利益が生まれる。出来る限り短時間で、最高の儲けを生み出さねば負けてしまう。効率が利益第一主義の柱になっているということですね。
   何度も吐露してきましたが、生まれついての性格なのか私は、急かされるのが苦手で、ぐずでのろまでのんびりや何事も自分のペースでゆっくり生きています。これからもこのスローペースは続いて行くだろうしこれが他人に迷惑をかけ続ける要因になっていくのも自覚しています。今の時代のニーズからは、完全に逸脱した不適合な人間だから余計にそう感じます。こんな落後者にも生きていく方法がありそれに出会えたからこそこうして息をしていられる。こんな愚鈍な人も生かされている。有り難いなとつくづく感じています。
   そう思う反面、前にいる人、若いのにやにゆっくり歩いているなと思うと、今流行のスマホを一生懸命さすっている。要は、自分のスピードを基準に速い、遅いと決めつけているだけかもしれない。すべては自分を中心に置き、自分の物差しでしか計れない、自分よがりな判断しか出来ない訳ですね!
  先を急いでいる人は、速足で歩き、急いでいない人は、ゆっくり歩き、どちらでもない人は、普通に歩くだけ・・・文句を言っても仕方がない。

   ふてくされながら「徒然草」の中にある文章を思い出し読み直してみました。第74段、蟻のごとくに、現代語訳(角川書店編)をあげておきます。

       
   『 人間が、この都に集まって蟻のように、東西南北にあくせく走り回っている。その中には、
   地位の高い人や低い人、年老いた人や若い人が混じっている。それぞれ、働きに行く所があり
   帰る家がある。帰れば夜寝て、朝起きてまた仕事に出る。このようにあくせくと働いて、いったい
   何が目的なのか。要するにおのれの生命に執着し、利益を追い求めて、とどまることがないのだ。
     このように利己と保身に明け暮れて、何を期待しようというのか。何も期待できやしない。
   待ち受けているのは、ただ老いと死の二つだけである。これらは、一瞬もとまらぬ速さでやって
   くる。それを待つ間、人生に何の楽しみがあろうか。何もありはしない。
     生きることの意味を知ろうとしない者は、老いも死も恐れない。名声や利益に心奪われ、我が
   人生の終着が間近に迫っていることを、知ろうとしないからである。逆に生きることの意味が
   わからない者は、老いと死が迫り来ることを、悲しみ恐れる。それは、この世が永久不変である
   と思い込んで、万物が流転変化するという無常の原理をわきまえないからである。』

    「みんな生きていくのが精一杯、自分の命や健康にしがみつき、金儲けに精を出し出来ることなら名声も手に入れたい。そんなにあくせく働いてどうするの?もっと大切な生き方があるのでは?少しは、立ち止まって、すべてのものは流転変化しいづれ消滅する無常の真理に目を向けてみてはどうですか!」吉田兼好は、現代の私たちに忠告をしているように聞こえます。老いや死から目をそらさずに受け入れて、どうしたらこの不安を解決出来るのか?死をとおして生を明らかにせよ。後ろ向きだととらえていたことが実は、前向きであった。ということでしょうか?
    
    名声と利益に心を奪われ、すでにそれを手に入れた人たちも存在します。有名人・資産家は、今もそれを失わずに、もっと多くの名声と金銭を手に入れようと血眼になって生きている事でしょう。この種の人たちは、謙虚さに欠け自分よがりで自己顕示欲が強い傾向が顕著に表れています。自己顕示欲の強い人は、とにかく饒舌で自慢しなくてはいられない。
  「俺は、金持ちだ!」
  「俺は、あれもこれも持っている!」
  「俺は、偉い!」
  「俺は、強い!」
  「俺は、頭が良い!」
  「俺は、才能がある!」
  「俺は、血筋が良い!」
    とかくこういう人は、世間では嫌われ者です。徒然草の第79段にもこう書かれています。


    『どんな場合でも、よく知らないふりをするにかぎる。立派な人間は、知っていても知った
   かぶりをしないものだ。軽薄な人間にかぎって、何でも知らないことはないといった返事を
   する。だから、聞いている相手が圧倒されることもあるが、本人自身が自分からすごいと思い
   込んでいるさまは、どうにも救いがたい。
    よく知っている方面については、口数少なく、聞かれないかぎりは黙っているのが一番で
   ある。』

     しゃべりが上手で饒舌な人は、政治家・評論家・サギ師・アナウンサー・落語家にむいているそうです。今は、無口で話が面白くないと逆に暗いと言われてしまいます。これは、性格にもよるし環境によって変わってくるし仕方のない部分もありますね?「沈黙は金なり」という言葉もあるのに死語になりつつあるのかもしれません。
     あまりしゃべりすぎない、あまり優越感にひたらない、一方的にまくし立てず自己主張を控える、相手の話もちゃんと聞く。そして今とても大事なことは、「その場の空気を読む。雰囲気を壊さずに相手の気に障るようなことはなるべく言わない。」だそうです。なるべく嫌われないよう敵をつくらず仲間を増やしていくことが重要なようです。自分の意思を押さえこみその場に合わせる。これもまたむつかしい話術が必要になってきました。

    『人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝ることのあるは、大きなる
    失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと
    思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言わねども、内心にそこばくのとがあり。慎みて
    これを忘るべし。をこにも見え、人にも言ひ消たれ、禍をも招くは、ただこの慢心なり。
     一道にも誠に長じぬる人は、みづから明らかにその非を知る故に、志常に満たずして
    終に物に伐(ほこ)る事なし。』第167段

     この段では、自己主張や自己顕示ばかりではなくて「善をほこる」「争う」「他に勝ること」を
意識することが責められる原因になる。名誉や地位や優秀な技芸を持つことがうぬぼれのもとになると言う。特に若いうちに才能を発揮して世から認められる人もいます。周りからその才芸に喝采をあびて有頂天にならない人の方が珍しいくらいです。必ず自分の才能をひけらかし慢心し悦に入るに違いありません。そこで「持つこと」「所有すること」が否定されています。
     どんなに才能があり一芸に秀でていたとしても自分では誇らず、威張らず、謙虚さと節度をもちあわせなくてはならない。ここでは人間としての品位と教養の問題として語られている。この自己顕示欲は、誰もが持ち合わせている欲のひとつで、どんな分野においても天才・秀才と言われ、あがめられれば自分は特別な人間だと勘違いをして横柄な言動・行動を取るようになってしまうのでしょう。幸い3流で異端の武芸の裏街道を歩んでいる自分にはほど遠い世界であり、負け惜しみに思われるかもしれませんが、1流で無くて才能が無くて良かった。もし一芸に秀でて世に認められようものなら、間違えなく鼻もちならぬ自信満々な嫌な人間に成っていたでしょう。有頂天になり人を小馬鹿にし良い気になっていたことでしょう!
     兼好は、謙虚な心を失った饒舌で自己顕示の強い人間を厳しく非難している。自分の才能・才芸は、自分で世にアピールして外に向かうものではなく、自分の思惑とは別に世が認めてくれる。あくまで受け身であるべきで自分自身で主張し固辞すべきものではない。世間のノイズに邪魔されずに、ただただ好きな道を謙虚に誠実に朴訥と進んでいけば良いのだと諭してくれているようで、少しほっとしました。
     自分の心の内へ向かうまなざし、外へ下界へ向かうのではなく、遮られることなくもっともっと自分の奥深くまで見つめ続けて生きていけたらと思います。常に周囲や他人の視線や反応を気にしながら生きるのは向いていないようですし、世間の波にうまく乗ることもないでしょう。「成功」「大成」などという言葉から別世界で生かされている自分に落胆することもありません。獲得することより所有することより、捉われないこと捨てていくことの方が大切なような気がします。
     

    
   『老いぬる人は、精神おとろへ、淡くおろそかにして、感じうごく所なし。心おのづから
    しづかなれば、無益のわざをなさず、身を助けて愁(うれへ)なく、人の煩(わずら)ひ
    なからん事をおもふ。老いて智の若き時にまされる事、若くして、かたちの老いたるに
    まされるが如し。』(172段)

      年を取って高齢になると、いろんな不自由なことが起こって来ます。すべての能力が衰え鈍って来ます。40歳を越えれば、まず視力の不自由さを感じる人が多くなってくるのではないでしょうか?近くが見えづらくなる老眼の症状が出たり、耳が遠くなり聞きとりづらくなったり、髪の毛が白くなったり抜けたり、顔にしわやたるみが出はじめたり、記憶力や判断力も衰え、動作も緩慢になり、精神的にもやる気がうせてきます。「いいことはひとつもない。」と嘆いきたくなりますよね?昨日、出来たことが今日出来ず、今日、出来たことが明日、出来なくなる訳ですから・・・・
     「この世は、無常だなあ」どの時代に生きた人も感じたに違いありません。肉体的にも精神的にも衰えて落ちこむ時期もあるでしょうが、そればかりではないと兼好は言っています。それなりの人生を送るあいだに、いろいろな苦労もあっただろうし経験も積んできたわけで、経験を通して習得した知恵も沢山あるはずです。どんな逆境に会ってもうろたえることなく落ち着いて対峙し、優れた見識と知恵を充分発揮して乗り越える方法を得ているはずです。常に物事を冷静に落ち着いて的確にとらえる能力は、年を重ねなければ得られないでしょう。ありのまま現状を正確にとらえ、それに正しい対処をほどこし平常を維持することが出来るはずです。老練の智慧とは、心の安静を維持し、自分自身を制御し気持ちの中を波立たせない、静けさを保ち続ける、やはりこだわりに振り回されないことですか?

      どれだけ多く、どれほど深く苦しんだか?どれほど涙を流したか?どれほど失望・落胆したか?失敗は重ねれば重ねるほど、人を強くたくましく鍛えてくれます。涙と汗の量が、人としての魅力を決定するのでしょうね?成功ばかり手に入れた人、すべてが予定通り上手く行っている人は、世間からは羨ましがられるかもしれませんが、こういう人と話をしてもお酒を飲んでも楽しくなさそうです。苦労話を聞いたり失敗談を聞いた方が、為にもなるし間違いなく面白そうで楽しいはずです。そんな人達と一緒に寄り添い合って生きていければと思います。
     「死ぬまでヘマをし続け、他人に迷惑をかけ続けなくては生きられない、そんな人生だと覚悟しながらも、少しづつでも老練な智慧を磨き続けられたら・・・」と切に願っています。

     
                                          3/24,  2014
「空と無」     
                 


     ブルース・リー 「先生」
    老師 「お前の技は今、技量ではなく、精神面の洞察と訓練の問題に差し掛かってる。
        いくつか尋ねるが、これからどんな技を極めたいのだ?」
    ブルース・リー 「無の技を」
    老師 「よろしい、敵に会ったらどうするのだ?」
    ブルース・リー 「敵などはいないということです!」
    老師 「なぜだね?」
    ブルース・リー 「私というものが存在しないからです。」
    老師 「説明してみよ。」
    ブルース・リー 「戦闘という概念を人の思考過程からなくし、心を無にすれば、無意識にうまく
        流れていきます。敵が押してくれば引き、敵が引けば押します。機が訪れれば相手を倒し
        ます。私は打ち込みません。(拳を上げ)これが自然に打ち込まれるのです!」
    老師 「忘れるな、敵は見せかけの虚像の姿で現れる。野心を背後に隠してな、虚像を打て!
        敵は倒れる。お前の言った無意識は強力な武器となる。
        かつてある男が誓いを破り悪しきことをおこなった。少林寺の掟は何世紀に渡り守られて
        きた。同門の名誉は保たれてきたのだ。掟の13条を言ってみなさい。」
    ブルース・リー 「門下生は、己の行為に責任を持ち、その結果を受け入れねばならぬ。」
    老師 「恥ずかしい話だが、門下生の中にその知識と技を己の野望に用いたものがいた。我らの
        聖なるものを汚した。名はハンだ。我らの信念に背き少林寺の名を辱めた。
        今こそ、お前が失われた名誉を取り戻せ!」
    ブルース・リー 「わかりました。」

   もうお察しの通り、映画「燃えよドラゴン」オープニングのワン・シーンですね。1973年の公開当初には、東洋的で哲学的な言い回しが西洋では、理解されないだろうとカットされたシーンです。97年頃ですかディレクターズ・カット盤が発売され観ることが出来るようになりました。

   この老師との対話の中に秘められた東洋の哲学とは、どんな意味があったのか?師祖ブルース・リーは、世界中の人々に知って欲しかった東洋の思想とは?彼が、意図した本当の真意とかけ離れてしまうかもしれませんが、自分勝手な想像で読み説いてみようと思います。
 
   老師は、会話の冒頭で「あなたは、すでに肉体的にも精神的にも充分な鍛錬を積み、かなりの修行レベルにまで達している。これ以上、何を求めて修行の道を歩んでいくつもりなのだ?」と聞いています。それに対して彼は「無の技を」と答えています。無の技が、最高の技、最後の極み、究極の境地、さとりだと考えても良いでしょう。
   武道・武術の世界において「無の技」とは、どんな意味なのか?単なる技術としてどんな相手も打ち負かすことが出来る秘技なのか?或いは、最高の技を繰り出すための心がまえ、平常心、精神的な境地のことを言っているのか?いや、この両方を兼ね備えた技術・精神一如の状態を指しているのか?
   老師は、すでに修行段階が身心一如のかなり高いレベルに達していることを認めています。その上にあるステージが、「無の技」になるわけです。「無の技」の解釈は後述することにします。
   次に老師は、敵に対したらどう対処するのだと聞いています。その答えは、「敵などいません。己も存在しません。」でした。どうして自分がいなくて敵もいないのか?これから敵を倒しに行く物語が始まろうとしているのに?自分も相手も存在しない??? 訳がわかりません。デカルトの有名な言葉に「我思う、ゆえに我あり」に反するではないか?まず自分の存在が前提にあり自分を取り巻く世界があると普通考えています。
   これは、禅の教えにある言葉から引用されたと思われます。ブルース・リーは、禅でいう「無」「空」「無我」の思想をこの短い会話の中へ挿入したかったようです。

   私は、無とか空とか聞くと般若心経にある「色即是空・空即是色」や老子の「無為自然」や道元の「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるといふは、自己の身心および他己も身心をして脱落せしむるなり。」という言葉が思い浮かんできます。
   この仏教と老子・荘子(老荘思想)には、関係があるようです。紀元前後、仏教はインドからシルクロードを通って中国に伝来したとされています。この時期、膨大な量の経典が持ち込まれ翻訳されました。インドでは異なった時期に編纂されたものが同時に伝えられたため、伝来当初から、中国人の仏教理解には混乱が生じました。 さらに、儒教をはじめとした既存の思想の存在や中華思想などの理由から、外来宗教である仏教の定着は容易ではなく、そこで、仏教者たちは、儒教や道教の思想を借用して仏教を翻訳・解釈することにより、その存在の保持と拡大をはかりました。 この風潮は、後の老荘思想によって仏教を理解する「格義(かくぎ)仏教」を生み出すこととなります。
   
   
    この分野の専門家・森三樹三郎氏は、著書「老子・荘子」の中で次のように述べています。
    
   『 中国に伝えられた初期の仏教経典には、小乗系にものもあり、大乗系のものもあったが、けっきょく中国の知識人に受容されたのは大乗の経典であった。その大乗経典のうちでも、「般若経」の系統のものが中心となった。般若とは知恵の意であり、一切皆空の理を明らかにする知恵のことである。すべてを空と見ることにより、あらゆるものの実在を否定し、その結果として特定の物への執着を消滅させ、一切を平等無差別に見る悟りの境地に達する。
    もし般若皆空の思想をこのように理解してよいとすれば、それがいかに老荘の思想に近接しているかに驚くほかはない。老子は空のかわりに無というが、その無はあらゆる有の根本にあるものである。荘子に至っては、老子よりもさらに般若の立場に近い。荘子は無というよりは、無極、無限を根本とする。この無限者の立場に立てば、あらゆる物はその対立と差別を失い、平等無差別となって無限者のうちに包容されてしまう。いわゆる万物斉同の境地がこれである。この荘子の無の思想ー実は無限の思想は、般若の空にたいして最短距離にあるといえよう。
    このように仏教と老荘思想には大きな共通点があるので、老荘思想になじんだ中国人が、これを通じて仏教を理解しようとしたのは当然であろう。ただ、このような老荘を通じて理解した仏教には、どうしても老荘的色彩がつきまとうことになる。このように老荘色をおびた仏教は、ふつうに格義仏教とよばれている。』

   「敵はいません。己も存在しません。」ということは、相手も自分も人間という物だと考えるとすべての物は、存在しない。私たちが有ると思っているものは、本当は、そのようには存在せず、現実には存在しないというかたちで存在している。自分が勝手に見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、考えたりしてイメージした虚像を本来の物の姿だととらえている。自分の執着心を通した拘りのニセの像を本物だと誤って捉えてしまっているということでしょうか?
   時間は、流れ続けて昨日の自分と今日の自分は違い、まして1年前の自分と今の自分は、細胞は全部入れ替わった自分です。石も鉄も何百年も経てば消えて無くなり、永遠だと捉えていた姿がそうではなかった。1秒、1秒老化して死に向かっている私たちの体の存在は、変化しそのスピードが止まる事はありません。
   いつまでも生きていられると思っていた自分がそうではなかった。般若(智慧)の空のとらえかたは、確固たる永遠不滅なものは存在しない。あなたもわたしも永久には生きられない。時間に流され続けて変化し続けている。「自己をならふというふは、自己をわするるなり。」勝手な思いこみをしていた自己を忘れなくてはいけない。「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。」すべての法・真理に照らされて愚かな自分があらわになる。「万法に証せらるといふは、自己の身心および他己も身心をして脱落せしむるなり。」法に照らされると自分の体も心も他の人の体も心も(山川草木も)崩れ去って無に還る。自分よがりな作為を捨て真理の流れにすべてをゆだねる。
   自分が憎しみをいだく敵もいなければ、憎い敵をやっつけてやろうという怒りの気持ちにとらわれた自分もいないのだということでしょう。

   「戦闘という概念を人の思考過程からなくし、心を無にすれば、無意識にうまく
    流れていきます。敵が押してくれば引き、敵が引けば押します。機が訪れれば相手を
    倒します。私は打ち込みません。(拳を上げ)これが自然に打ち込まれるのです!」

   緊張せずに恐怖心を持たず相対する。どうやって打とう、どうやって防ごうと心の中の葛藤を冷静にコントロールし相手の動きに集中する。相手が出てくれば引く、相手が引けば出る。陰と陽の調和をうながしながら、チャンスが来たら無意識に自然に攻撃を出します。
   この攻撃の機が訪れた時、彼はカウンター攻撃を出したのでしょう。武道経験のある方は、うなずけると思いますが、技がかかる機は、カウンターを打てる時は、一瞬です。今だと感じた瞬間に打っていないと間に合いません。あたり前ですが、この一瞬の攻防が決め手になります。自然にカウンターが出せるようになれば、最小限のエネルギーで最大限の効果を出せる最高の技術ですね。

   
   「敵は見せかけの虚像の姿で現れる。野心を背後に隠してな、虚像を打て!
     敵は倒れる。お前の言った無意識は強力な武器となる。」

   『大品般若経』では「空」を「諸法は幻の如く、焔(陽炎)の如く、水中の月の如く、虚空の如く、響の如く、ガンダルヴァの城の如く、夢の如く、影の如く、鏡中の像の如く、化(変化)の如し」と説明しています。これを十喩の教えというそうです。
   
   「幻の如く」とは、幻を見ては、それが現実であると思うってしまう。無明がやめば、それを原因と
    する現象も消えるという教えです。
   「炎の如く」炎は風を起こし塵を動かす。男女間の炎のような愛欲感情も邪念の塵であるという教え
    です。
   「水中の月の如く」月は、もともと夜空にあって水の中にあるのではない。しかし愚人は水中の月を
    見て、水の中に月があると考える。凡夫は我見のために、大空に輝く法性の月を見る事が出来ない。
   「虚空の如く」元来虚空なものは、その名だけがあって実のないものである。虚空の本来の姿は清浄
    であるのに無知な人は、その陰を見て不浄と思い込むという教えです。
   「響の如く」やまびこが響き、それを人の声だと思わせ人の耳をあざむく。これも本来、空なるもの
    だという教え。
   「ガンダルヴァの城の如く」ガンダルヴァの城とは、蜃気楼のこと。蜃気楼が本物だと錯覚して近ず
    こうとするが幻のごとく消えてしまう。諸法の空なることを知らずに欲や怒りの後を追い、一時的
    な快楽を求めるが、より増した苦悩を得るという教え。
   「夢の如く」5種類の夢があるといわれていますが、いづれ夢はさめて現実に戻る。夢も空なるもの。
   「影の如く」ものの影は目で見ることは出来てもつかむことは出来ない。光はあって影は現れ、人の
    動きに応じて動く。善悪の行いも影のように人について回るという教え。
   「鏡中の像の如く」鏡に映る像は、物と鏡が和合した時に現れる。和合によって現れた姿も空である
    にも関わらず、それに愛着を覚えとらわれてしまう。
   「化の如く」心の変化のことで、心は一身を多身として、多身を一心とする。石や壁の中でも自由に
    通行し、水を渡り、空中を行き、手に日月をとらしめる。あるいは、地を水となし、水を地となし
    火を風となし風を火となし、石を金となし、金を石となす。心の変化はかくのごとく限りないもの
    であり、諸法もまた心のごとく空であるというおしえです。公方俊良氏の解説を参考にさせて
    いただきました。

    以上、十喩(じゅうゆ)の1番目「幻の如く」と9番目「鏡中の像の如く」は、まさしく「燃えよドラゴン」の中で悪役ハンと死闘をくりひろげた鏡の部屋でのシーンを思い出させます。最後のクライマックスの決闘で悪役ハンが苦境の末、四方八方に鏡が張られた隠し部屋へ逃げ込みました。鏡に映し出されたハンの虚像にだまされ、相手の実像が捉えられずに苦戦しているブルース・リーの脳裏に、老師のこの言葉が浮かんできます。
   「敵は見せかけの虚像の姿で現れる。野心を背後に隠してな、虚像を打て!
     敵は倒れる。お前の言った無意識は強力な武器となる。」
    鏡と悪役ハンが和合して鏡にいくつものハンの姿が映り、それがすべて空の姿。鏡に映った空の虚像のハンを本当のハンだと思い込み執着してしまった。もうひと息で相手を仕留めることができる、早く決めてやろうという焦りの心、完璧な勝利を得ようとするかたくなな心、自分の執着心をコナゴナに砕くように鏡に映ったハンの虚像つまり鏡を割り続けていきました。ただただ鏡を割り続ける、体が動くままに無意識に鏡と虚像を粉砕する。すると隠れていた相手の本来の姿が浮かびあがり、無意識のうちにサイドキックが蹴りだされ勝利する。
    彼は、「サイドキックとは、敵対した相手にだけ蹴り出されるのではない、自分の心に潜むエゴやとらわれを粉砕するためにも有効なテクニックなんだ!」とも言っていました。 

    最後に「無の技」とは、何を定義しようとしていたのか?最終到達点、理想の境地を指す言葉だとは察しがつきます。彼が、武道の修練の進み具合を、三段階に分けて説明している文章が残っていますので参考にしてみます。
    第1段階、原始的で闘い方について何の知識も技術も経験も持たない白紙の状態です。攻撃の出し方もよけ方も知らずに、本能のまま殴ったり、かわしたりするだけです。肉体的に鍛えた訳でもなく、攻防に対して科学的な知識もなく、本能のまま身体を動かし闘います。技術的にはまったく無知な状態です。しかし、その動作は流動的で何かの型にはまっている訳ではありません。その本能的な反応は、粗雑に見え適切な動作でもありませんが、しかし自然であり自分を素直に表現しているとも言えます。
    第2段階は、闘いの技術を習得していきます。立ち方、動き方、殴り方、蹴り方、投げ方、かわし方、策略等あらゆる戦闘知識を詰め込んでいく段階です。技の習得・錬磨に時間と労力を費やし合理的で科学的な動作を覚え、無駄のない効率的な動きが身についてきます。技術習得の段階です。次の段階へ進むには必ず必要な大切な時期ですが、ここで注意しなくてはいけない点をブルース・リーは、指摘しています。
    指導者の教えるとおり、動作のマネをする。まったく疑問をもたずに先生の言うまま鵜のみにして、ひたすら形を繰り返す。そこには創造力も洞察力も働かず、ただ型にはめ込み制限された作業をしているわけです。ひとつひとつの動作を盲目的に繰り返すだけでは、その技を出すタイミングや状況の判断もつかなくなり応用も変化も効きません。技は知っていても現実の闘いでは、まったく役に立たない。形にこだわり過ぎて用法、使い方が分からないのです。ここには、自己の自由や流動性、自然な反応はありません。古典的な流派に身を置く人たちは、この段階で満足してしまい伝統を受け継いだとプライドのかたまりと化してしまうケースが見受けられます。それはそれで構わないと個人的には思いますが・・・
    この第2段階で、少しだけ創造力・応用力を忘れずに心がけていると次の最終段階へスムーズに移行できるということでしょう。自分の独自の思索を用いて、時には先生から習得した動作を改変する勇気も必要であり、それが現実に即し無駄なく流れ結果が出れば、それで良しとする。
    第3段階、「無」「自然」の境地です。厳しい反復練習・稽古に耐え多くの技を身につけた次の最後の段階ですね。自分の意志や判断を抜きにして無意識に即座に、その一瞬に適した技が現れる。自ら努めて何かしようとするのではないし、脳で分析され出された指令に従うでもない、即自的な自然な動きです。
    これまで練習して身につけた基本の型・動作などが最小限になり、完全に忘れ去られたわけではなく「無」の境地に支配される。そうすると形や目的など何ものにもとらわれない「無意識」の状態から手足、体が動き、その結果にありのままの自分自身が表現される。
    

   「無」「無心」「無為」については、生前ブルース・リーは、いくつもの記述を残しているので紹介します。

   『平安や平穏は大切なことであるが、それは「無心」の根源を構成する心の何にもとらわれない
    部分である。グンフーの使い手は、何もとらえることはないがすべてを拒まず、映し出しはする
    が留めておかない、といったように心を鏡の状態にしている。アラン・ワッツが述べているよう
    に「無心」とは、人の心を邪魔する邪念やエゴのない、心が自由で平和に機能する全体の姿を
    指す。ワッツが言っているのは、それぞれの内にある邪念やエゴによって心を乱されないよう
    心をあるがままの状態にすることである。あるがままの思考でいる限り、追い払う努力は
    まったく要らない。努力が要らないということは、邪念の完全な消失ということになる。』

   『意にそわないことも含めて次々と起こることすべてを受け入れることで、何も努力は要らない。
   「無心」とは、感情や感覚のない状態ではなく、こだわったり、拒絶したりすることのない状態
    である。それは、留まることを知らず絶え間なく流れている川のように、感情的な作用に対して
    心を動かされないことである。』

   『究極的には、目的を持たぬ状態にならねばならない。目的を持たないということは、空白を
    目的とすることであり、単に何もないということではない。思考過程に執着することが目的
    ではない。その本質は、自然形のないもので、目的を入れられるものではない。そこで何かに
    執着すると、精神エネルギーはバランスを失い自然な活動は束縛され、流れることができなく
    なる。しかし、流動的な状態、心が空の状態、もしくは単に平常心と言われる目的を持たない
    状態の場合、精神はどこにも留まらない。一方向に傾くこともなく、物事を超越し環境の変化
    に空の心で臨み、まったく痕跡を残さない。』

   『「無」は「~と違う」とか「~でない」という意味であり、「為」は、「活動」「行動」「努力」
    「強いる」「働く」といった意味がある。しかし、実際に何もしないことを意味しているのでは
    なく、心をひとつにしてあるがままの心の動きに委ねるということである。最も大切なのは、何が
    あっても努めて行わないことである。グンフーでいう「無為」は、制御するものが心であり
    精神、もしくは心の活動を意味している。スパーリングを通してグンフーの使い手は、何の
    抵抗もなく心を解放して相手に反応し、しなやかな動きがとれる。忘我の境地に達し相手の
    動きに合わせることを学ぶ。その動きは自己主張ではなく、心が自然で何物にもとらわれて
    いない状態になっている。思考をすると動きが乱れ即座に倒されてしまう。したがって、すべて
    の動きは出そうと意図しないでだされなければならない。』

   『グンフーにおける集中には、注意力を単一の物体に限定するという通常の意味はなく、何にせよ
    今ここで起こっていることのもの静かな認識を意味するのだ。そうした集中の例証となるのが
    フットボールの試合を観戦中の観客である。ボールを持つ選手に注意を集中するかわりに観客
    たちはフットボール場全体を認識している。同様のやり方で、グンフー家の心も相手のある特定
    の部位にとらわれることなく、集中するのである。これは数多くの相手と対する時に、とりわけ
    あてはまる。例えばかりにある男が10人の男から連続的に攻撃を受けたとしよう。ひとりが
    片づいたら、心にストップする暇をあたえず次に移っていかなければならない。ひとつのブロー
    を次のブローがフォローするスピードに関わりなく、そのふたつの間に何かが入る時間は
    いっさいない。かくして10人がことごとく連続して成功裏に片づけられる。これが可能になる
    のは、心が何かにとらわれたり止められたりすることなく、ひとつの目的から次の目的へと
    移っていけたときだけだ。心がこうしたやり方で動いていけないと、ひとりの相手と次の相手
    の間にどこかで闘いに敗れるのは必定である。
     彼の心は、あらゆる処に存在する。なぜならそれは、いかなる特定の対象にとらわれていない
    からだ。そしてこの対象、あるいはあの対象と関係しているときも執着がないため、その状態
    を保っていられる。思考の流れは池を満たす水にも似て、いつでもまた流れを変えられる。
    それは自由であるが故に無尽蔵のパワーを発揮でき、空っぽであるが故にすべてに対して開かれ
    ている。
     先述したようにグンフー家は、自分自身と相手との調和を目指す。相手との調和は、軋轢と
    反発を招く力を通じてではなく、相手の力に従うことによって可能になることも、すでに述べた
    通りである。換言すれば、グンフー家は相手の自発的な前進をうながし、あえて自分の動作で
    介入しようとはしない。すべての主観的な感情と個性を放棄することで自分自身を失い、相手
    とひとつになる。彼の心の内側で対立はお互いを排除するのではなく、お互いに協力するもの
    となる。彼の個人的なエゴと作為が自分のものでない力に従ったとき、彼は最高の行為
    すなわち無為を達成するのである。』

   以上、似かよった表現もありましたが、何となく彼が求めていた境地が分かってきます。これを私たちが、どう受け取るか?ひとりひとり違った感じ方をする、違った理解をする、押しつけられるのではなく自分なりの受け取りをして下さい。

    友人でもあり弟子でもあったジョージ・リーに宛てた手紙で、ブルース・リーは修練の三段階を象徴する三つのサインを作ってもらいたいと頼んだ。そして、それを道場に掲げていました。最後にここで紹介しておきます。
       
    1、部分性 ー 極端な方向へ向かうこと
    2、流動性 ー 一つの全体の中にある二つの半分
    3、空 ー 形のない形

                                        3/1,2013


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